戦前の浅間山
出会ひ
先生との出会ひのことを、かつて自分の詩集のあとがきの中で「偶得」の詩をひきあひに
出して語ったことがある。「人生はそんな美しい詩のやうにはゆきませんよ、小っぽけなが
らも先生はハリー誓星を見ることができたんだし、同じやうに知己ならば小っぽけだけどこ
こにをります」との思ひをこめて誌したつもりであった。しかし本当のところは人のことなど
云へたものでない。7、8年も昔の話になるだらうか、ぼくが詩のやうなものを書き始めた
頃、当時出た「現代詩辞典」の中に田中克己の名が享年と共に小さく記されてゐるのを見
て、ああやっはり知己なんてものは…と何やらひどく感慨に耽ったことがあったからである。
ところがそれは田中冬二と田中克己の名を混同したために起きた単なる編集上のミスで
あって、阿佐ケ谷辺りぢや先生、読み終った本をまた同じ古本屋に持ちこんではそこの親
父を大きに閉口させてるらしいよ、など云ふことを懇意の古本屋の主人人から聞きおよん
だのである。ぼくはもう矢も盾もたまらなくなってしまった。それまで未見の詩人の家におし
かけるといふことなど考へたこともなかったが、一度死んだと思はれた詩人が何だか生き
返ったやうな、そして本当の「知己」に巡り合ふチャンスはもう今しかないのだと何者かが
唆すやうに、あの「偶得」の詩が頭の中をぐるぐる回り始めたのである。
偶得
ハリー彗星は1910年に現はれ
(その翌年におれは生れたのだ)
その周期は76年と7日だから
1986年に再び見えるといふ
おれはこの書を読み心楽しまなかった
多分おれは一度もこの星を見ないだらう
思ふに人間の相逢ふのもこれに等しいのだ
知己を一人得るはそれほど難く
恋人を一人得るもまた難いのだ
おれの知己はおれの死後に出て来るのだ
おれの恋人はおれの生れる前に死んだのだ
「詩集大陸遠望」(昭和15年)より
気が付けば石神井発阿佐ヶ谷行きのバスに乗り込んでゐた。そして住居表示を頼りに
捜し歩いていった末にたどり着いた詩人の家は時をりしも夕飯時、換気扇から流れる煮
物の温かい匂ひが玄関先に立ち尽くす痴呆のやうな自分をやうやく目覚めさせたのであ
った。本の上でしか見たことのない敬愛する詩人の表札を前にして、ぼくはまるで片思ひ
の恋人の家を見つけた中学生のやうに興奮し、それから木槿の生ひ茂る路地を帰ってい
った、詩人に手紙を書かうといふ上気したある決意とともに。そのまま門を敲くことをせず
一端帰るところが今思へば四季派の流儀?であったらう。思ひつめたやうな「こひぶみ」
は一晩で仕上げて後先を者へずに投函した。中身はそれまで詩雑誌に投稿することなく
一人で書きためてきた十余りの詩篇について何ごとかのお言葉を賜りたいとか、確かそ
んなものではなかったかと思ふ。そしてこの手紙に返事がもらへないものならば、もう先の
見えなくなった東京暮しを切り上げて故郷へ帰る決心を内心その時につけてゐたのである。
思へばそれは失意に満ちた当時のぼくにとって人生におけるひとつの大げさな賭けとも呼
ぶべきものだった。果して運命の返事は返ってきた、ぼくはわが眼が信じられなかった。
「貴翰並びにお作12篇拝受、お作は皆詩ですがたった二行ではむりですね。私は四行、
中也はもっと長くかきました。旧字旧仮名づかひなつかしく存じました。
おついでの節はお立寄り下さい。九月十三日」
文面に中也のことがあるのは、手紙の中で、詩を読んで涙を実際に流したことがあるの
は先生と中也の詩だけだなどとぬけぬけと綴ったからである。大陸遠望所載の「Ein Marchen」
と、もうひとつは中也の「渓流」といふ詩のことだったが、それは当時のぼくの一番のお
気に入りの抒情詩だった。しかしその癖自分はまだ短い散文の写生のやうなものしか書
くことができず、「二行ではむりです云々」のくだりはその辺りのことを指してのたしなめだ
ったわけである。
さて当時のぼくとて社交辞令を介さぬでもなかったはずだが、四季派の羞らひもいいか
げんなもので、たった一枚の葉書に舞ひ上がってしまったぼくはさっそくお宅に電話を差し
上げた。上品な夫人の声で取り次ぎがあって暫くすると、今度の日曜日に来なさいとの大
阪なまりの先生の声を初めて耳にした。もっとも先生も文学に関して社交辞令を弄するや
うな人ではないことは後で判ったが、ともあれ約束通りその週の日曜日に阿佐谷の家にお
そるおそる推参することになったのである。九月始めのまだ残暑の厳しい頃で、背広姿の
ぼくは玄関左手の応接間に通されたが、しばらくすると着流し姿で先生が現れた。最初の
挨拶がどんなだったかははっきり覚えてゐない。おそらくのっけからお送りした詩の批評を
されたのだと思ふ。もっと長く書くやうに、そしてそれを今度来るときに見せてくれと、一
張羅でやって来た訪問者を単なる表敬にしむけるやうにはあしらはない態度が緊張し切
ったぼくをすっかり喜ばせた。先生にしてみれば、海とも山とも判らぬ当世の文学青年相
手に真面目に詩を論ずるなど余程暇をもてあましてゐたところであったのだらう。その先
生の第一印象だが、着流しのせゐもあったが、恐ろしい程 「なで肩」 で扇風機の風にも
靡かんばかりの痩躯なのにはまず驚いた。細長い腕を飄々とまるで操り人形のやうに動
かしながら話をされる様子は、正に「生き残った詩人」といった印象をぼくに刻みこんだ。
大きな黒子のある鼻、その鼻にかけられた眼鏡の奥に子供のやうな瞳を輝かせ、風格
の話振りは何を話しても世間臭さを感じさせない、何かとても清潔な倫理の風を身にま
とってゐる感じがするのだった。
先生は「四季」は現在休刊中であるがもう続けるつもりがないので申し訳ないことをして
しまったと、しきりに仰言られた。「四季」なる雑誌が第五次を以て今だに存在しているこ
となどその時初めて知ったのだが、けだし先生はぼくのことを「四季」の投稿募集を見て
やって来た者か何かと思はれたのかもしれない。そしてその「四季」であるが、半年後に
先生はもう一度けじめをつけるために出さう、君の詩を発表するために出すのだよ、と
仰言って最終号を編集されたのだった。記念すべき「四季」には「最後の同人」を紹介
するために不相応な誌面がさかれたが、生涯の光栄としてぼくはこのことも自分の詩集
のあとがきに記さずにはをれなかった。そしてその小っぽけな処女詩集を、先生が「僕
に献じてくれた」と悠紀子夫人と共に喜んで下さった晴れがましさを今でもはげしくなつ
かしい羞恥の心なしでは思ひ出すことができないのである。
その日の先生は、それから朔太郎を特集した群馬の郷土誌を取り上げるとぼくと並ん
で座り直し、一番好きな詩だと云ふ「わが草木とならん日に」の詩を声に出して朗して下さ
った。「たれかは知らん敗亡の歴史を何に刻むべき…」。「父」をキリストと見倣して静か
にその詩の終連を繰り返す先生に、孤独な述志詩人の面影が漂ふのをぼくはうれしい
ことのやうにさびしいことのやうに見守るばかりだった。そしてこの界隈を着流しで歩く人
間はたうとう僕一人になってしまったよ、と笑ひながらドイツの国歌や童謡を大声で口づ
さまれる、その無防備の詩心をもやがて間近に知るに至って、ぼくはしみじみとこの師と
仰ぐに足る唯一の 「知己」となる詩人に巡り合った幸せを悟ったのだった。
思ひ出すこと
思ひ出すことといって、どうも回想といふことになると何から書き起こしたらよいものか
分からない。田中先生が教鞭を執られてゐた時代をぼくは知らないし、当時の面白をか
しいエピソードを実際に見知ったわけでもない者が訳知り顔でここに引くのも嫌である。
また先生自らの回想は、その大方が過去に御自身の手で文にされてゐるものか、ある
ひは文にできぬやうなものが殆どで、先生の口にされる「肥下が」「保田が」といふ言葉
尻に、ぼくは昭和文学史の一端に実際に触れてゐるといふ、感激に近いものを大切に
味はつてゐたにすぎないからである。自然、ぼくも先生との話の中では「肥下さん」「保
田さん」といふことになってしまったのだが、畏れながらそのやうな雰囲気に馴染んで
気持の高調したまま下宿に戻り、若き日の彼等の著作を読み耽ってゐた自分が今は
なつかしく思ひ起こされるばかりだ。
先生の御宅へは、考へてみれば殆ど毎月一度の割合で伺ってゐたことになる。最初
の半年位は月に三度ほど、また昭和六十三年に一度倒れられて暫く入院された時には
病院に見舞ひ旁々伺った。
田中克己といへば癇癪と憂鬱の激しい詩人といふ定説になってゐるが、ぼくが先生に
対して「癇性」を感じたのはお付き合ひさせて頂いた五年間もの間に一度しかない。こち
らが正面を向いて話す態度の限り決して人を脅すやうなことを言ふ人でないことは、そし
て嘘を嫌っていつも一番損な役割りを恵まれない者と共に甘受されてをられたことを、教
え子であった誰もが御存知であらう。とは思ふものの余りにひどい言はれ方を戦争詩と
からめて云々する人々が今だにゐるやうで、こんな風評についてすら同じ気難し屋の教
師であった伊東静雄と比べてみると、教へ子に沢山の発言者を持つことのなかった先生
には大層恵まれなかったことと考へられるのである。
ではぼくがただ一度、先生を恐ろしく思ったといふのは一体どんな時だったかといふに、
あれは三度目の訪問だったか、話の途中でロシア文学が話題に上り、その時にぼくが「
カラマーゾフ」を3日かかって読みあげて熱まで出した経験をお話したことがあった。する
と先生はドストエフスキイなんて駄目だ駄目だと嫌な顔をされ、ロシアならばトルストイに
限るといふやうな態度でてんで取りつく島がない。訪問も3度目といふこともあってぼくも
気持の上で甘えたかったのだらう、帰ってからすぐ先生に長文の手紙を書いたのだが、
そしてそれがどうも先生の癇に障ったらしいのである。折り返し一通の葉書が届いた。
「先刻お譲りした『白楽天』はすぐお返し下さい」、何かそんな突き放した感じの短い文
面であったことを覚えてゐる。さあ大変だ。もう先生の前には参れない。早速の破門通
告書に違ひない。そのやうに思ひつめるぼくもぼくなら先生も先生であり、考へてみれぱ
二人とも子供のやうではある。しかし面識の浅い者に対してさすがに先生とて一線を劃
って付き合ふ礼儀のあったわけであり、それが普通でぼくが変なわけだが、先生の老人
らしからぬ詩人然とした人柄に甘えてどこまでも上がりこんでゆかうとした田舎者の無礼
さに改めて気が付くと、ぼくは後悔先に立たずの気持でその夜涙したのである。そして次
の日、先生が留守だらうと思はれる日曜日の午前中に(何故なら夫妻はクリスチャンであ
ったから)、ぼくはこっそり阿佐ケ谷の御宅を訪れて、頂いた『白楽天』の本の上に辞去の
弁を兼ねた詫び状と共に件の葉書を添え、ポストにそれらを重ねると一礼してしょんぼり
帰ってきたのであった。だから恐い思ひをしたといっても直接先生に睨まれたわけではな
い。果たして再び先生からは呼び出しの手紙を頂き(何故ならぼくの下宿には電話などな
かったから)、その夜に初めて夕食まで御馳走になった。先生はぼくの態度を咎めるどこ
ろか夫人から諭された由、しきりに恐縮される。ぼくは一度に胸に温かい火を灯された心
地がして言葉もなかった。先生を訪へば必ず悠紀子夫人の手料理の御相伴に与ることと
なったのもその日のことからであった。祖父祖母と暮らしたことのない者にとっては、貴重
なお話もさうだがその様なお心遣ひは何より嬉しかったし、夫妻にはぼくが家庭の温もり
に縁もなく一人暮らしをしてゐる今時珍らかな文学青年に映ったのだらう。不自由だらうと
仰言っては何くれとなくいろいろなものを持たされたことを、孫のやうな気持で今も思ひ出
さずにはをられない。
アルバムを見せて頂いたのもその夜のことだ(後日それらの内の幾つかはコピーさせて
頂いた)。若き日の先生の容姿には、伊東静雄とも立原道造とも違った純然たる詩人らし
さが漂ってゐて、コギトの仲間達と撮った写真では保田與重郎の目ざしと共に際立った印
象を与へるものだった。先生の若い頃の写真をそれまで中公文庫に載った小さなものしか
見たことがなかったので、自分の中にある「詩人のイメージ」に新しい風貌のひとつを加へ
入れ得た思ひをしたものである。
言はばそんなことがあって以来、本当に先生とは詩の上に限って言へば一脈通じた所
でお話をさせて頂くやうになった気がするのである。まもなく御宅の書庫にあった「コギト」の
現物の揃ひを、分けてやるから値段を言ひなさいなどと仰せられたこともあった。もとより
そんな貴重なものに安月給のぼくが値段など付けることなどできなかったが、先生は「『コ
ギト』は復刻を持ってゐれぱいいんだよ」と仰言る。先生の一番大切にされてゐる筈の宝
物だったから一寸不思議にも思ったが、それほど「コギト」は先生にとって既に礼を払ふ
必要もない身近な存在としてあったといふことなのだらう。書庫には「コギト」と共に「四季」
の揃ひもあったが、先生はどちらかと言へば「堀さん」と並んで自分の名前が表紙を飾っ
てゐる「四季」の方をより大切に思ふ心があったやぅだ。その生涯敬愛し続けた堀辰雄と
は戦前からの長い夫妻ぐるみの親交が続いてゐたし、ぼくも先生の形見分けに呼ばれた
折には、病の既に篤かつた悠紀子夫人のお見舞にみえた処とて多恵子未亡人と偶然挨
拶もさせて頂いた。旧同人等の協力の薄かった第5次「四季」を終刊された際には「自分
には堀さんのやうな人徳なく『四季』の名を汚してしまって大変申し訳ないことをした」と後
悔された先生であったが、「四季」を主宰された決意の内には、先生なりの堀辰雄への思
ひ入れがあったやうである。「コギト」と「四季」。その大切にされたお手製の合本を、少し
づつ貸して頂いて本物に触れる感激を堪能させて頂いたことも今となってはなつかしい思
ひ出とはなつた。
★
先生の御宅でぼくは何を伺ったらうか。懐ひ起こせば、聞く耳のない自らの無学が、訊
きそびれた怠慢と共に我身を責む。
先生の専門は東洋史であったけれども、難しい話を幾らされてもぼくは顔だけ珍しさう
にしてただ合槌をうつばかりで、話が何も始まらぬのは先生も御存知だった。話題はも
っぱら昔の思ひ出や詩の話、それから目の前で映ってゐるテレビの話題などに限られ
たやうに思ふ。二等兵でとられた時のつらい思ひ出は、軍属で南方へ派遣された時の
軒昂たる思ひ出と一緒に、伺へば必ず出たし、機嫌のよい時には(入歯があらうとなか
らうと)ドイツの歌や日本の童謡、果ては奉祝歌(軍歌ではない)の類ひまで朗々と口ずさ
まれる先生であった。(ぼくも一緒に歌はされた。楽しかった。)機嫌といへば、御自身の
ことを「躁鬱病」と決めてかかってゐる節があったが、それを治さうとするよりはむしろ、
その病名に寄っかかって人付合ひに生じる色んな面倒ごとから身を守り、あるひは言
ひ出したら聞かない性分の理由に当てたられたやうにも思はれたものである。ぼくも先
生が「鬱」の時には話し相手を悠紀子夫人と決めてゐて、「実に参った」といった顔でふ
さぎ込んでゐる先生を肴にしては二人で色々話に花を咲かせるのが常であったから、
「鬱で寝込んでますよ」と夫人から電話で伺っても、別の日を指定されない限りは遠慮
もせずお邪魔することにしてゐた。夫人にとつてさういふぼくは、謂はば気難し屋の「病
人」を相手に楽しんでくれる調法者でもあって、ぼくの伺ふ日には安心して外出もされる。
偶々喧嘩の後になどやって来れば「詩を書いても詩人になんかなったら駄目ですよ」な
どと仰言って夕飯の用意を始める口実になったりした。実際先生も先生で、二人きりに
なれば起き上がり、口癖の「死んだ方がまし」の言葉を皮切りに、毎朝最初に目を通す
といふ新聞の死亡欄から、最近死んだ知人のことなどを拾ってぼそぼそと話しの糸口
をほぐし始めるのである。思ふに先生の「鬱」といふのもかなり自覚された厭世観によ
るものではなかったらうか。ただしかし、先生宅への訪問を一番楽しみにしてゐたのは
やはり自分であって、お二人がぼくの様なものでも来てくれて嬉しいと仰言って下さるこ
とが、何より自身には日々の詩作の励みになったものである。四季を廃刊にされた頃
からは、新しく詩を持って上がっても添削などして頂けなくなってしまったが、それでも
詩を暫く書かないでお話だけぼんやり聞きに伺ってゐると突然、「そう言へばこの頃詩
はどうしたのかね」と新作の提出を求められる。先生の黒い眸が輝いてゐるこんな「操」
の時には、こちらも菓子などパクついてゐる場合ではない。「溢れてゐる」先生の詩心
と正面から向き合はねばならず、しかし議論しても始まらぬのは前に述べた通りだ。そ
れでもこの時とばかり、受け身にならず質問ばかりしてぼくは甘へた。先生から新しい
話題が聞き出せるのはこの時しかなかったからである。実際こんな時の先生には何で
も物事が見通すことができたらしい。詩の点だって当然辛く、一瞥の後の寸評はいつ
でも触れられたくない所を一言に表して小賢しい作者をドキリとさせるのだった。果樹
園時代の西垣修氏が「今ここで詩を書いて下さい」との難題に冷汗をかかれた由だが、
ぼくの場合はさらにその後があって、「ぢや中嶋君、今までの詩を一度全部朗読してく
れないか」と仰せつかったものだ。折悪しく悠紀子夫人が留守で助け舟もなく、その時
は丁度出来上がったばかりの雑誌が手元にあった。
今すぐには書けないですよ、と断ることはできても、目の前にあるものを読まれません
とは言へない。観念したぼくが本当に消え入るやうな小声で読み通すと、先生は「伊東
静雄は大きな声を出して自分の詩を読み、リズムを何度も確かめて苦吟したよ」と笑
はれた。だが先生御自身だって、確かに歌は能くされたが自作詩の朗読など誰かに
聞かせたことがあったのだらうか。況んや伊東静雄と朗誦し合ふ筈がないではないか。
一体に、このロマン派の先達たちは詩の風格で一致する所はあっても作詩の方法
は丸きり違ふ。先生日く、自分は酒も飲まないのに酔っぱらった様になり、一気呵成
に書き上げた後の斧鉞は殆ど加へないと。それは書きなぐつた昔の日記に見出され
る草稿に推敲の後がなく、かつ発表されたものとも変化のないことがよく証明してゐる。
巷に詩人のズボラと云ふけれども、文学は余技の心で臨むべきと心得た若き日の先
生の、しかもそこに現れた発想の不羈と言葉のいなし方の、紛れもない天才の所作で
あることにはただただ驚かされる。ぼくはと云へば短い詩を何度も試し眇めつしては書
き直し、先生の下す白黒はっきりした評定に一喜一憂する至極単純な弟子にすぎなか
った。そんな自分が小狡い答案ばかり書き綴ってゐる四季派学校の点取り生徒のやう
にも思はれたことである(そして今でもさうなのだ)。先生ゐまさざる現在、あれを思ひ
これを思へば詩作をめぐる懇切なお言葉の数々が想ひ出されてくる。
まず読めと薦めて頂いたのは「月下の一群」と鴎外訳の「即興詩人」。「即興詩人」は
あの雅語に対して現代の若者の反応を試したかったのかもしれない。ただ、ぼくは先生
と出会ふ前には日夏耿之介にひどく心酔私淑してゐて、その随筆の悪文?を片端から
漢和を引いてかぢりつくやうに読んでゐた偏屈な時期があったからこれは大丈夫であっ
た。そして森鴎外も小説嫌ひのぼくが読んだ数少ない小説家で、「即興詩人」は違ふけ
れどその押し殺したやうな淡々さは好きだつた。かういふ嗜好はその後のぼくのコギト
派解釈の素地となったのではないかと思ってゐる位だ。一方「月下の一群」の中ではと
りわけジャムに心引かれたのだが、やはりこれで四季派抒情への傾斜を深めたかと思ふ。
「オノマトペの類には用心すること。他にも”ああ”といふ感嘆や、耳に珍しいだけの造
語や動植物の名は、なるべく使ふべきでない」
有名な詩人の何人かについて、先生は名利とは別の次元でその世評を軽蔑してゐた。
尤も自然に対するアプローチが先生の場合は、その散文からも窺はれる様に多分に
書斎博物誌的な要素があった事は否めない。しかしそれを反対に警戒してか、作られ
た詩は、絶対の自信のある東洋史実から採った「コワモテもの」を除けば、残りはなる
べく普通の言葉で流行不易を描かうとした一見平易に見える詩の多いことにも気付く
のである。また宮澤賢治について云へば、信奉する宗教が違ふといふより、戦後の保
田與重郎さんの発言を気にして触れたくない気味もあったのか知れない。それは保田
さんが日本の三詩人を伊東静雄、蔵原伸二郎、宮澤賢治としたことであったが、伊東、
宮澤、萩原朔太郎だったら問題にならなかったのだらうと思ふ。宮沢賢治について何
かの話の次いでに駒を振ってみても全くの暖簾に腕押しであった。それから他には「
汚い言葉を使ってはならない」と、これははっきり仰言った。
四季に載せる為の原稿の一つを、書き直してくるやうに云はれたのにそのまま提出
したことがあった。すると先生は、「直してこなかったねえ」とこちらの思惑の強さを推し
量るやうに云ってから、高校時代の日記に書いた痰壷の歌についてこれも保田さん
から冷たい一言で諭されて恥ぢ入った思ひ出を引いて語って下さったことがある。ぼ
くの詩は許されてそのまま印刷に掛けられたけれども。その先生に絶大の影響を与
へた保田氏は、後年も折々、殺伐としたニュースには「目が穢れる」との警句を口に
されたといふ。しかし田中先生が表現の上で潔癖を口にきれたのは、最初から知りた
くないといふ拒絶感よりも、むしろ自分を含めた丸裸の現実には一度は目を瞠り、か
つそれらのものに人間は耐へられぬのだといふ諦観をもってして行はれた極めて人
間臭いものであったのではないかとぼくは思ってゐる。そこに元々ヒロイズムなどはな
いのである。青年期の詩人に往々にして現れる老成した諦観、それは韜晦を矛盾と
感じさせないだけの若気によって支へられてゐるが、しかしその諦観も、自らが即し
切れない以上はやがて身振りに成り果てるだらう。さうして神経を侵す死の恐怖が、
失はれゆく生への苛立ちとともに断ち切られてゆくという韜晦が身振りの元で何度で
も起こる。そのやうに真実といふものは生身の人間には書き得ず、ただ矛盾のうち
に詩人は予感されたものを報知するのがせゐぜゐなのである。彼等の韜晦する言
挙げには言ひ訳も暴露も必要ないことを、自らを修羅の埒外に置いた保田與重郎氏
は早くから知り抜いてゐたのだらうか。倭健命の様に、言挙げた預言によって復讐さ
れたコギトの詩人達が、戦後は一切の身振りを脱ぎ捨ててしまったことが年齢のせ
ゐばかりでなくやはり時宜を得たものであったとぼくには思はれる。果たして次代を
担った詩人達の多くは言ひ訳と暴露の詩に明け暮れたのだ。そこに真実と称して欲
望に曇らされた現実をのみ見、やはり浮かばれぬものをぼくは感じたが、テレビを見
てゐた先生がしみじみと仰言ったものだ。
「中嶋君。四季派の詩人はエイズなんかで死んぢゃいかんよ」と。それは当初マスコ
ミに興味本位で取り上げられてゐたエイズといふ意味であったが「四季派」がマスコ
ミに巻き込まれたらおしまひだといふことをこんな具合に言ひ表すことが、すでに何
事か誤解をはらみさうなところで、全くぼくも同感したのだった。
その詩について
昨年、先生が亡くなった年の夏に、初めて八王子にある上川霊園を訪ねた。墓前
に手を合はせ、鳴きしきる蝉時雨に暫し耳を傾け、来し方に何想ひ行く末へ何を語
ったものやら、しばらく神妙な面持ちでお墓の周りなどぶらぶらしてゐたら偶然近く
に同じ詩人、金子光晴の墓があるのをみつけて苦笑した。
「先生、これでは天国でも詩論談義が絶えないのとちがひますか」
個人主義的な厭戦行動によって戦後、伝説的な復活を遂げた彼とは反対に、先生
には戦中の「神軍」他の著作が物語るやうな、西欧列強と対決する為の拠り所として、
現人神(あらひとがみ)や五族共和を文字通りの理想と信じた自らの過去がある。
戦後キリスト者となられた後もそれについて直視され、ぼくがサインを求めた詩集にも、
「神軍と思ひたがへしおろかさは いまに悔ゆるもせむすべもなし」との一首をさら
さらと署されたほどの先生であるけれど、好悪の激しかった生前の笑顔に重ね合
はせてみれば、その時にはこんな返事を雲間に聞いたやうな気がした。
「いいや、不信心な奴らは全部地獄へ落っこちたから顔合はすこともないよ」
先生の人の好き嫌ひは有名で、自らも「僕ははじめて会った人は大抵好きになり、
その後だんだん悪いところが見つかるにつれて嫌ひになってゆき、最後にこの人を
友だちとしておくか否かの土壇場まで来る」と書いてゐる。尤も若い頃はその後「ま
た思ひ直してだんだんと欠点を忘れてゆくといった風」であったやうだが、ぼくなど先
生の所へあと何年も通ってゐたら、次第に詩を忘れ快楽に流されてゆく様を見てあ
るひは破門を宣告されたかもしれない。人生、酷苦の末の徒労を恐れるやうになった
ら、あとは上りつめた高さから「優しさ」といふ安楽な滑り台に身を任せて落ちるより他
はなく、さういふ打算的な態度こそを一番に嫌はれてゐる風が先生にはあった。人当
たりに限らず「優しさ」といふものは、先生にあっては常に「易しさ」に遷元されうるも
のであったかもしれない。
さうしてそれを恐れられた先生の詩にも優しさを真正面から歌ったものが少ないこと
をぼくらは見るのである。優しさうに見える詩もよく良く見れば皆残酷を歌ったもので
あり、その「優しさ」もイロニーの表情に過ぎないことに気付くのだ。歌はれた残酷にど
れだけ作者が生身で即してゐるのか、そこに「優しさ」ではなく「悲しみ」として計られる
抒情の純度を読者は受け取るといふ仕組みがある。
さて、さうは言ってもぼくが数ある先生の詩の中で一番「優しさ」を感じる詩があつて、
ここに記したい。
哀歌
あの曲り角をまがると
おまへの家が見えてくる
小川のよこの木々にかこまれた家だ
もうそこにはゐないのに
おまへが写真でのやうに
今日もしづかにそこで笑ってゐるやうに思ふ
泣いてゐる写真か 怒ってゐる写真
死ぬためにはそれらをのこすべきだ
僕はおまへのことを考へると
だまされたあとのやうにくやしくなる
「詩集悲歌」(昭和31年)より
この詩が収められてゐるのは戦後しばらくして刊行された詩集「悲歌」。ぼくはこの詩をい
つも伊東静雄の同じく戦後に出した「反響」所載の「夏の終り」や、蔵原伸二郎の最後の絶
唱「風の中で歌う空っぽの子守歌」といふ詩と重ね合はせて考へてしまふ。それらの詩を静
かに黙読してゐると、全体を通して何か湛へられた大きな運命の質量のやうなものを感じる
のだ。彼等詩人にとってそれはつまり不可避な戦争に翻弄された青春の日々であった訳だ
が、それが嵐のやうに去った後、刻印としてではなく透明な風に吹かれゆく喪失感として表
されてゐるのをまざまざと感ずる。
夏の終り
伊東静雄
夜来の颱風にひとりはぐれた白い雲が
気のとほくなるほど澄みに澄んだ
かぐはしい大気の空を流れてゆく
太陽の燃えかがやく野の景観に
それがおほきく落す静かな翳は
…さよなら…さやうなら…
…さよなら…さやうなら…
いちいちさう頷く眼差のやうに
一筋ひかる街道をよこぎり
あざやかな暗緑の水田の面を移り
ちひさく動く行人をおひ越して
しづかにしづかに村落の屋根屋根や
樹上にかげり
…さよなら…さやうなら…
…さよなら…さやうなら…
ずつとこの会釈をつづけながら
やがて優しくわが視野から遠ざかる
「詩集反響」(昭和22年)より
風の中で歌う空っぽの子守歌
蔵原伸二郎
今日は日曜日
田舎の小学校の庭には
ひっそりしている
窓々に子供たちの
明かるい顔も見えない
ふく風の中で
お前はおじいちゃんの腕に抱かれている
お前の祖父は干乾びた山椒魚のようだ
二つの腕の間を風ばかりが吹き過ぎてゆく
万里子よ
お前は風の中ですやすやと眠っている
お前の頬には
樹蔭のみどりと薔薇色がゆれている
千の光がお前のあどけない唇で唄っている
乳の匂いのするお前のやわらかい肢体は
虚無に浮いている地球と同じ重さただ
かずかぎりないおじいさんたちが
しわがれ声で唄って消え去ったように
このあやめの花咲くしずかな校庭で
おれもしわがれた声で唄うよ 万里子
ねんねんよ
ねんねんよ
おまえのおじいちゃんには
もう何の夢もない
もう何の願いもない
すべてが失敗と悔恨の歴史だ
かわいい万里子ちゃんよ
ほらね いま永遠がとおりすぎるよ
どこかで かすかな水の音がきこえる
どこか遠いところで牛が鳴いている
「詩集岩魚」(昭和39年)より
青春は終に「徒労」であったのか。上りつめた高みから突き落とされた彼等は、しかし
どん底において「肝に銘じた」訳ではなく、ひたすら「流れた」のであった。けれどこの流
れ出た優しさの何といふ「言ひ訳のない自分」に溢れてゐることだ。人は何と言はうとぼ
くは絶対弁護したいのである。彼等の詩作を代表するものは勿論、戦前の不穏な時代
に成った数々の「面構へを持った名作」ではあらう。けれどもこの三つの詩は三者それ
ぞれの個性を一番生のままに表してをり、敢へて言へば肩の力を抜いた詩の「立ち姿」
は抒情詩の究極の「あり方」を示してゐる、そのやうに断言してよいやうにぼくには思は
れるのである。ちなみに伊東静雄には同じ「夏の終」なる戦中の作品もあるが、そちらの
方では実際に「壮大なもの」が予覚され、嵐の前の静けさなのであろうか、接近する低気
圧にむづかり全てが厭になった詩人が預言的、終末的言辞を連ねてゐる。期せずして
敗戦、続くこれら後作への伏線となってゐることは風味深いことである。
さてここではもうーつ、友人への想ひの表し方についてを見てみたい、これも独特のものだ。
伊東静雄を再び引き合ひに出して何だが、「若死をするほどの者は、自分のことだけしか
考へないのだ」といふ一節が有名な「若死」といふ詩、これと先ほどの「哀歌」を見比べて
みたい。二者通じて言へることは、自分が怒って見せること、それが悼むべき対称にぶ
つけられる時に、詩人にはその思惑とは関係なく、神への「甘へ」が、その結果、何がし
かの天罰よ下るものならば下れと身構へる偽悪的な預言者の面影さへが窺はれるとい
ふことだ。詩人の個性としては、この恨みがましい「甘へ」は伊東静雄が得意とし、後者
の「言挙げ」の姿勢は田中克己の方が強いと言へばへば言へるだらうか。作品「大陸遠
望」の一種悪魔的な終連はその極点を示すものであり、そこに表れた金色に輝く幻想の
中に詩人自身のロマンのありたけを託すことによって、彼はかつてへルダーリーンが理
念として描いてゐたやうな、歴史を指し示す者としての「詩人」の称号を自らに冠し得たと
も言へたのである。
また別の見方をするならば、他人をくさしたり自分を悪者にすることで相手を持ち上げよ
うとするのは、大阪人ならば誰でも持ち合はせてゐる親愛を表す流儀でもあるわけで、こ
の、伝統が飽和した機内文化圏の人間だけが持ち得る心情の丁解方法を、ドイツロマン
派の文学手法としての「イロニー」、あるいは富士谷御杖が好んで使った「倒言」といった
文藝学の概念に絡び付けることに着眼し、またそれを己れの文化の出自の誇りと共に
言挙げしてきた「コギト」の文学精神は、「殺し文句」によるイロニックな上方の「人情文学」
なのだと思ふし、東京が発信する「四季」のスマートな「外づらのよい文学」とは、大層人当
りの異なったものであることも分かるのである。
さて、大阪に住み、良心に即した散文で、このやうに誤解されやすい「コギト」の詩精神
を最も弁護した同人こそ本詩「哀歌」で悼まれてゐる中島栄次郎ではなかったか。この
度死後半世紀の後に、遺族と昔の仲間らの尽力によって彼の遺作評論集が刊行され
た。自ら痛みを感じ文学のリアリティーに肉薄しようとした彼の評論は、専門を離れる
程に闇達な語り口となって、地味ではあるが、誠実真壁な人柄とともに哲学的な正確
なアプローチが冴えを見せ、将に木刀を正面に構へて見切ってくる剣士のやうな潔さ
を感じさせる。先生は彼を生涯一等の親友であると公言して憚らなかったが良く分か
ることだ。先生のアルバムの最初には大きく引き伸ばした中島さんの写真が貼つてあ
ったが、彼が戦死しなかったら「コギト」の評価はどうなってゐたであらう。少なくとも
「哀歌」などといふ詩が出来ずに済んだことだけは確かなのであるが。
★
(田中先生の詩の中から好きな一篇)といふことで「哀歌」といふ戦後の作品を挙げた。
優しさを一番感じる作品を探してさうなったが、「胸の中でいつも繰り返される作品」と
いふことでは京都の舟山逸子さんからは第四次「四季」創刊号に載った「近況」といふ
詩のことをお便り頂いた。詩集「悲歌」以後の先生の作品は、キリスト者の信仰の詩と
なって詩集「神聖な約束」にも収められてゐる。シニカルな視点が、もはや著者の批判
精神ではなく、生地の性格として透明感あるものに表されてゐろことに清廉を感じる。
そこには年と共に枯淡の境地を展いた詩人の厭世的な死生感が、ユーモアさへ伴ひ
存在してゐるやうに思はれる。その若年の日の激しい発現を、例へば近江時代の知
人である天野忠は、詩集「神軍」所載の「Mortality」といふ詩に見出し、絢爛な墨絵を
描く若年寄詩人の代表作であると賞揚した。またぼくの敬愛する詩人木下夕爾も戦後
になって同じ「神軍」所載の「恥辱」といふ詩に触れて書いてゐる。著者や詩集の名を
忘れたと伏して記すところが、またこの人一流の含差だ。いづれにせよ物々しい名の
戦争詩集から良い詩を選び抜くことのできる二人のこだはりのないセンスが嬉しい。
さて「厭世」であったり「鬱屈」であったりと、その詩を特徴付けるに内容をもってすれ
ば、およそ現代日本にはそぐひさうもない特色が挙げられるのであるが、詩人の個性
を最も際立たせてゐるのは(当時の抒情詩人達の多くに共通することであるけれど)詩
の「内容」ではなく、その「面構へ」なのである。
とは云っても例へば四季派の寵児である立原道造は、蜂鳥を日干しにする「早春」と
いふ詩に瞠目し、うろたへた末に拒絶した訳だ(とぼくは思ふ)。同じ「強面」の表情を、
かたや「コギト派」生へ抜きで立原と同年輩詩人であった増田晃は「鰹」の詩において
絶賛してをり、彼が立原道造より四年長く生き、そして戦死したことを考へ合はせれば
「不穏な時代に成った数々の面構へを持った名作」と先にぼくが書いたこと、それらを
巡って時代の詩人達の受け取り方も、様々に強ひられてきた時代と共にあることが分
かるやうな気がする。例へば保田與重郎が詩人の出現を「文学史的な感銘」と形容し
た意味が、当時を生きてゐなかったほくにも転換期の歴史の強面な表情を察すること
で十分に理解されるのである。それならば今日の日に、ぼくは田中先生の若き日の
作品から一体どんな詩を如何なる意味合ひにおいて採るのか。
先生が亡くなった時、駆け付け御自宅で長男の史氏から、会葬で配る先生の略歴
に何か一篇「詩」を載せたいが何が良いものか意見を求められたことがあった。印刷
行数の問題もあり長いものは無理であったが、時が時であるのを承知の上で、結局
ぼくは「寒鳥」といふ「詩集西康省」中の一篇を推したのだった。
寒鳥
杳かに道を来てふりかへると
雲際をさまざまな旗たてて行列が逝った
わしは山や谷に分けいり
懸崖に菊の花を見たが
菊は眼前に瞠き 懸崖は
掌の指のやうに裂けて見せた
わしは声を出してほうと喚び
一声のあとは幾声も出た
「詩集西康省」より
「一声のあとは幾声も出た」といふ一行が詩の眼目、ミソである。このやうな一行が出
るか出ないかといふ所に詩の良し悪しを見出し、まるで刀の切れ味を吟味するやうに
目を細めて端座する詩人がゐる。清廉な性情に基づいた発露としてここに倫理の影
の一片もないことをぼくは戦時下に成ったものであることと関係なく得難いことと感ず
るのである。伊東静雄が苦吟の果てに搾り出した思想的な風格のある絶唱とは一寸
肌合ひが違ふし、同じ「強面」でも「射殺」などいふ言葉を飛び道具のやうに連射した
戦後の思想詩人とは拠って立つ場所が丸きり違ふ。それは詩人の眼にとらはれた菊
花のけざやかさが、感覚でもつてぼくらに教へてくれることだ。例へばここに天皇制の
象徴としての「菊」を見、「行列」に死出の旅へ赴く軍隊を重ねてみてどうなる訳でもな
い。ここには「反語」や「あてこすり」もないだらうし、ぼくが先生の葬儀に際して「行列」
といふ言葉に託した気持も同じなのであった。一羽の鳥となった詩人の魂に開かれた
展望の風景は、葬儀に参列された方々の心に、キリスト者として神に召された先生と
は別の、孤独を自らの宿命と定めてきた「詩人の業」を想はせたかもしれない。
「詩人」と云ひ、その「業」といふのも、さういふ表現を含めて、あくまでも文学上のこと
ではあらう。けれどもその時、ぼくには文学上に味はふ筈の悲しみが一人の生身の人
間を喪った悲しみを浄化しながら、自らにも受け継がれて行く生活上のものとして大切
な遺産となったやうな気持がした。この「悲しみ」を受け継ぐといふことは一体どういふ
ことであるのか。先生は、何度も云ふやうに現代の詩人とは没交渉である上、戦争時
代を書いたことで今も白い眼でみられてゐる「抹殺された詩人」である。生前笑ひなが
らよく、「大変な先生についたものだねえ」と仰言った言葉は、しかしぼくに当っては自
らを侍むべき心強い響きとなって憶ひ返されることとなったのだった。
このみちを泣きつつわれのゆきしこと わが忘れなばたれかしるらむ
この歌を再び出すまでもなく、田中克己は謂はば出発の時点で終焉の地点を歌ひ切
ってしまった「預言と宿命の詩人」なのであらう。昭和五年の日記に同じく記された一首
がかう復唱する。
たれをかも恨むにあらむこのみちを いつよりわれはなきそめてこし
付記(この稿1993年4月より1994年10月に成る)