藤原資愛(南洞日野資愛すけなる)の序
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杉岡暾桑、少(わか)きより頴敏にして博く群書に通ず。性最も詩を好む。毎(つね)に当世の豪俊と会す。艱題険韻に遇ふといへども、即ち毫(ふで)を援
(と)れば立(たちどこ)ろに成る。長篇累章多々ますます奇にして、未だ嘗てその搆思するを見ず。所謂七歩八叉(故事:七歩の才、八叉手)(の者といへ
ど)も以てその捷きに比するに足らず。自ら錦繍の心腸、珠玉咳唾の者にあらざれば、安(いづくん)ぞ能く斯くのごとくならんや。是を以て人の嘆称せざるな
し。
而して五七の小詩(絶句等)尋常の題詠は、時として或ひは逡巡し、差(やや)推敲を労せり。人之を誦すれば平々淡々たれども、細(つぶさ)に之を味ふに
至り、則ち八珍(八つの珍味)を嘗むるがごとし。頴敏博通の美、その中に隠然たり。余を以て之を観るに叟(おきな)の長ずる所は蓋し此(五七の小詩)に在
りて、彼(長篇の累章)に在らざるなり。
叟は濃(美濃)の郡上に末宦(地位の低い役人)たり。壬午(文政五年1822)の春下世す。嗣子良策その詩を裒集(ほうしゅう)、若干の巻と為し、序を
余に請う。余の陋劣の如き何ぞその首に題言するに堪へんや。然りといへども余と叟と相識ること多年、その情、黙して止むべからざるもの有り。遂に書するに
この言を以てすと云ふ。
文政甲申(文政七年1824)春 二月
藤原資愛
畑兎道の序
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序
暾桑道人遺稿の刻成る。その息、良作来たりて余に言を徴す。因りて想ふに今を距つ三十年前、余、銅駄坊(京都二条通り)に僑居し、道人宅と望衡対宇し
て、晨夕来往、詩酒して歓を罄(つく)せるを。
道人荐(しきり)に親戚の艱に通ひ、生産蕩尽して、動(やや)もすれば輙ち庸俗の為に睚眥を被り、欝々として志を得ず。
一旦奮然として衣を払ひ、一剣に仗(よ)りて千里に之(ゆ)き、遂に東のかた濃州に游ぶ。時たまたま郡上侯、盛んに学館を修めて良師を待つ。廼(すな
は)ち道人を延(まね)きて教授に命じ、厚く之を遇し、また居第を蘘荷溪に賜ふ。溪は則ち濃の勝概(景勝地)なり。翠屏は囲繞し碧波は潺湲として、所謂山
の美を採りて茹(食)ふべく、水の鮮を釣りて食ふべし。是に於いてか道人志を得、業また頗る行はれ、復た懐土の憾み無し。何ぞ図らん、去春疾に罷り溘焉と
して下世するを。惜しいかな。道人をして年永はしめば則ち将に大いに登用せられて為す所有らんものを。
今や此の編に対して往事を回看すれば、恍として南柯の一夢(故事)のごとし。ああ、人生の窮達、無聊の甚しきは、それ之を何とか謂わんや、遂に敍す。
文政癸未(文政六年1823)春 畑兎道 橘洲草堂にて識す
二村公忠(楳山)の序
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蘘荷溪詩集序
吾師暾桑先生、詩名籍甚にして京師の一大家なり。文政庚辰(文政三年)三月、吾が公、厚く聘して之を召す。余幼きより詩文の僻あり。先生召に応じて来た
ると聞き、大いに喜ぶこと珠玉を得たるがごとし。就きて之に師事す。
先生儒典資籍談ぜざるはなく、文場詩壇に通じ、相抗する者無し。嘗て書中に乾胡蝶の七律四十首、中島画餅子(中島椋隠)に次韻する鴨東四時の詞六十五首
を詠むこと有り。
天才の縦横するを具せる若(ごと)きは、世人の知る所にして吾が贅[言]を待たず。
惜しいかな、先生、文政壬午(文政五年)仲春(二月)、俄然として病に罷りて没す。弟子各(おのおの)浮萍の浪に随ひ、飄絮の風に託し、心蹤帰る所無き
がごとし。
深然として之を思ふや、凡そ物適へば則ち失ひ、満つれば則ち虧く。通達の秀才、長生を得難きは甚だ歎くべきなり。
その子良策父業を紹(つ)ぎ、兼ねて医事を能くす。又詩に巧みなり。公(藩主)之に命じて学館の長と為す。寵禄父に異ならず、是に於いて諸弟子と同(と
も)に謀り、遺稿を纂集して『蘘荷溪詩集』と名づけ、之を剞劂に付す。蓋し先生の平日の志なり。良策は真に是れ能く継述する者なり。刻成るに及びて余に師
弟の誼の辞すべからざる者有ることを言ふ。。因りて鄙言を以て之が序を為(つく)る。
文政甲申(文政七年1824) 孟秋
虞城(郡上) 楳山二村公忠 拝
浅井正胤の序
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盛んなるかな文政の化。煕々たり、嘩々たり。海内千里、文献足り、仁風の恵、慈雨の沢徧く至らざる無し。
吾が郷の士庶、その徳化を頌揚してその性情を諷詠する者、翕然(きゅうぜん:集まるさま)として少なからず。前に『濃北風雅』(天明三年1783)有
り、後に『三野風雅』(文政四年1821)有り、今又此の遺稿有り。文華の熾んなること、未だ此の時より甚しき有らず。
遺稿は頓桑翁の著すところにして、翁は西京の人なり。余初めその名を聞きてその詩を誦すれども未だ曽てその人を知らざりき。蓋し翁の敦学博識、一辞を賛
するを須ひず。最も詩賦に長じ、名は都鄙に布(わた)る。一瞬の問に珠璣山を成す。難題、嶮韻坦かなること平路のごとし。就中「鼠噛」「瓶梅」及び「患療
の美人」の詩、人口に膾炙し、遠近伝称す。
壬辰(庚辰1820年の誤り)の春、吾が郷に卜仕し、潜龍館長と為る。余、因りて高風に接するを得、朝夕周旋して、その徳輝に沾ふ。六経発する所有り。
百家窺はざるは無し。同寮(同僚)を誘掖すること諄々として倦まず。上下矜式し(敬って手本とし)、教化大いに行はる。あに科らんや去年二月、天その鑒を
奪い、忽焉として病没するを。
その子良策、箕袋相承け、能く家学を修め、遂に父職を襲ぐ。弟子益々進む。今冬余に、その遺稿を刻し以て四方に公せんことを謀る。余、之を嘉して曰く、
「翁の令名すでに今世に顕るも、その遺芳の不朽におけるはまた赤子(あなた)の力なり。一時の美挙は闔境(領内残らず)の栄華にして、愈々文教の遠きに覃
(およ)ぶ所、恵沢の博く施すところと知る」
と。遂に之が序と為す。
文政六年英未仲冬(十一月)南至日(冬至)
濃北虞城侍医
渡井正胤 撰並びに書
瀬尾教文の序
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敬桑先生の詩における、奇警敏捷は、ただに七歩八叉なるのみならず、是を以て少より老に至るまで作るところ殆ど万余首に及ぶ。
先醒嘗て自らその詩を鈔して以てこれを世に問はんと欲す。刻未だ成らずして逝けり。
令嗣良策君、剞劂に命ず。功を竣へて余に一言を徴む。余謂へらく「方今僅かに万分の一を刻す。甚だ惜しむべきに似たり。然りといえども「楓落呉江」の一
句、猶ほ以て不朽に垂るるに足る。況んや先生の詩、人口に膾炙せるものはまた、尠しと為さず。然らば則ち未だ全集を見ずといえども何の憾みか之れ有らん
や」と。遂に序す。
文政甲申(文政七年1824) 孟夏
瀬尾教文 拝撰
石川常厚 書
【巻
一 五言古詩】 江月聞笛
対
琴待月 牧公徴余古体別賦韮詩以呈 山斎喜客至 湖亭賞月
咏
孔雀寄源子綺 華頂歩月 陪菅翰林赴江戸途中睹富士 送石公璠遊南紀
送
石公璠遊南紀 鴨水歌 題小石偎巨石図 桜花篇
桜
花篇
【巻
二 七言古詩】 歌碑篇
歌
碑篇 高瀬行
高
瀬行 梅渓篇
梅
渓篇 春夜聴笛 胡蝶篇
胡
蝶篇 鉄脚老人歌 紅毛蝋造美人頭歌
紅
毛蝋造美人頭歌 送金子敬義遊予州浴道後温泉
送
金子敬義遊予州浴道後温泉 題鳴門図送畑鶴山遊阿波
題
鳴門図送畑鶴山遊阿波 織婦行
織
婦行 寄原六蔵 清初金陵柳敬亭好談小説令聴者能生悲惋歓喜之意・・・
承
前 題三酔人図
題
三酔人図 大堰渡夫歌
聴
虫 瞽女秋夜歌 南紀岸氏書画展観遥乞詩
春
日亀坦斎翁甞摘抄警句奇字・・・ 文化七年二月従菅公赴東都・・・
承
前 売痴行
売
痴行 仙台通宝歌
大
原薪女図応三井宗立需 二条城戍客阮公実命余楊弓匣題咏
二
条城戍客阮公実命余楊弓匣題咏 賀山本封山古稀 送金子敬義陪従左府藤公臨日光山烈祖紀事
送
金子敬義陪従左府藤公臨日光山烈祖紀事 九月十三夜
一
日訪方巌寓舎観笈・・・ 画餅山人有一壺晢質暗文甞捐棄牆陰今夏地震石倒毀之山人接続之以為茗炉
梅
村二村叟乞余以小史所載莵江争渡為題賦之余老鈍毛頴亦禿聊塞其責倘有具眼謂蒼古而無艾気是即公訂
白
紙 裏
表紙
杉岡良策の跋文
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先考(亡父)藩聘に応へ、京より濃(美濃)に来たり学館の子弟を教導す。俸禄若干及び居第を賜ふ。恩遇優渥、従遊の徒、日に益々多かりき。先考幼きより
詩を嗜み、感に触れ、興に乗じて作る所の篇什の巻冊、堆きを成す。
君輝、一日、二三の同社とその散逸を懼れて慫懣し、剞劂の事を詢(はか)る。未だ業卒へざるに先考下世す。君輝、不敏なれども俸禄を襲受し、学館に備員
し、待遇は一に先考の時のごとし。是れ君恩罔極の過愛に因るといへども、抑もまた先考の遺沢余恵なり。君輝のごとき庸劣、何ぞその任に当たるに堪へんや。
朝夕惴々として先業を失墜せんことを恐る。
今茲甲申(文政七年1824)の秋、同社と謀り、先考の集稿中十の一二分を摘録して五巻と為し、校訂して之を浄書の人に付す。写し了りて即ち鍥す。同後
の事故に鞅掌(忙殺)し、またその竣功を急ぐ。校訂も尚、舛訛有らんことを恐る。読者之を諒とせよ。
方今、君沢(藩主の恵み)の厚庇を荷ひて、遂に宿志を今日に獲る。庶幾くは継志の万一(万分の一)を補ふに足らんのみ。
天朝の巨卿、日野公及び諸名彦に賜を辱くする所の序文は、之を巻端に弁ぜり。哀しいかな、方今この集の成る。若し九原(あの世)より起こすべくんば則ち
先考の喜び知るべきなり。涙をふきて遂に跋す。
文政甲申(文政七年1824) 秋七月
濃北虞城文学
男 良策君輝 敬しんで誌す
奥
付 裏
表紙