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山田鼎石 やまだ ていせき(1720 享保5年5月19日 〜 1800 寛政12年1月12日)

 名は瑛、字は子成、通称は大蔵、鼎石(別に貞石)と号した。鼎石街(釜石町:現在の本町)の素封家山田常省の三男として享保5年5月19日生まれ る。上京して江村北海を師とし、岐阜に帰郷してからは、壮年期に一旦家業に専心するため詩筆を十五年間廃したものの復帰。以後、金龍道人、宮田嘯台、森球 玉、左合龍山らと「鳳鳴詩社」を結んで盟主として仰がれた。けだし岐阜詩壇の嚆矢と呼ぶべく、安永八年に刊行された詩集は、岐阜の人として最初期のものに 属する。
 享保5年5月19日没、岐阜市中大桑町の浄安寺に葬られる。明治初年の長良川堤防改築に際して塋域が移動し、埋骨の地は所在を失ふとともに、墓石も今は 無縁仏の扱ひとなってゐる ※下段参照


掛軸1(織田塚)  掛軸2  岐阜市円徳寺所蔵(岐阜市歴史博物館管理)



(岐阜県立図書館蔵)

『鼎石詩集』ていせきししゅう

1779年(安永8年)11月 菊花堂 上梓 
京:菊屋七郎兵衛(菊花堂) / 岐阜:藤屋喜平次

【第一冊】4,3,4,1,4(巻一),10(巻二)丁 / 【第二冊】25(巻三)丁 / 【第三冊】4(巻四),20(巻五),1,1,1丁  size 26.1×17.7cm


【第一冊】
表 紙
見 返し
序(江村北海) 1 2 3 4 5 6 7 8
序(金龍敬雄) 1 2 3 4 5 6
序(龍草盧) 1 2 3 4 5 6 7 8
目録 1 2

 巻之一
 五言古詩
左元鳳庭生霊芝賦此為賀 1 2
懐旧詩

陌上美人 1 2
花下飲

怨詩行 1 2
挽歌詩 1 2
促 織歌

 七言古詩
上 養老山
侠 客行
老婦歎鏡 1 2


 巻之二
 五言律詩
賦 得竹林鷽
白寉翁不老門集得長字 1 2
咏 白鼠
題画山水二首 1 2
溪 口春泛
幽居二首

寄 遠曲
邉馬有帰心
秋日送人之南海

岐 岨道中作応人需
大溪禅師見示新年作次韻呈上
次龍潭師新年韻却寄

人 日作
五日作
同諸子咏蛍得八庚

賦 得青松篇壽林氏六十
山中隠者
中秋前一夕月有蝕

中 秋同諸子賦得七陽
同 夜寄懐五瀬邨上氏
正伝刹主甚好奇石、余一日訪之乃出其所攅石数百種、見示一物一品靡不偉状実壮玩哉、有嘆作席上呈刹主 1 2
次 韻司馬子紀見寄
池塘生春艸

嘉納駅送北海先生赴郡上 1 2
為宮田士祥壽乃翁七十

寄 題井上氏蒼松園
五日諸子至同賦得一先 1 2
秋日山居
重陽日再次原韻答清公績文学

関邑途中口号 1 2
田君明宅宴集同北海先生及諸子賦得一先
九月十三夜懸壺楼小集得七陽

山家春日 1 2
春日遊稲葉山過雨憩含政寺得風字
夕陽僧

山士諧宅小集分題得夏日山居支韻 1 2
題画山水屏風応眄柯亭主人需
同千邨君及諸子泛舟長水得一東

江 上懐故人
春日諸子至同賦得十灰
春日宮田士祥宅集分體得五言律

咏 寉壽大江稚圭五十初度
満願精舎集同諸子賦得寉字
秋日極楽精舎集同諸子賦楓落呉江冷得十二侵



 五言排律
賦 得春色満皇州二首
賦 青松篇壽桑城邨上氏七十
聞大江稚圭講書方来館有此寄

咏 水仙花
寒梅


 六言排詩
春日郊行 1 2

裏 表紙

【第二冊】
表 紙

 七言律詩
長 安春望
双 胡蜨
七夕桂樹楼小集得浮字

擬 夏日侍宴
九日書懐

幽居 1 2
客中作
秋日偶作

至 日送人再之豫州
寄清君錦先生

中 秋前一夕江亭賞月得歌韻
秋日芭蕉館即事懐友

釣 父
寄芥君彦章
送人之南呉野  1 2
秋 日旅懐
九日餐菊亭雨集得寒字

漢 高廟
送五台山人還浪華

九 月十三夜凌雲軒雨集得賓字
秋夜遊寉林精舎同諸子賦得開字

秋日作五首 1 2
和 司馬元貞見寄
蒼 松篇壽張藩人七十
春初送申文英之洛陽

次 韻岡蘭夫見寄
蒼松篇壽令府坂君七十初度

偶 成
梅雨中臥病

頳桐花 1 2
金錢花
同諸子遊篠田氏宅得開字

哭 江邨孔均
次韻岡蘭夫

寉 林精舎送麟上人之東都
春日閑居二首 1 2
穀 日作
鸚鵡 1 2
次龍潭老師見寄韻二首

玉 蘭花
愛妾換剣

僧某次予旧作韻見贈再次原韻謝答 1 2
春燕
和司馬子紀

北 海先生将赴虞城枉駕弊盧賦此呈上
岐山懐古三首 1 2
夢遊天台山同諸子賦限韻標橋飄簫驕
呈 上金龍上人
咏雁来紅

咏 煙艸
中秋無月同諸子賦

望 海
遊寉林精舎作

季冬夜同諸子賦得陽韻 1 2
次服美仲二株寺集示司馬子紀韻却寄二首

咏 笋
伊藤士善文学将赴東都途中宿嘉納駅宮田士祥邀宴席上賦呈之

山 亭初夏
関邑司馬氏眄柯亭宴集倍北海先生同諸子賦示子紀

咏 牡丹応洛陽人索
遊小房山途中口号

九月十三夜左元鳳宅同金龍上人及諸子賦得六麻 1 2
水中楼影
関邑田君宅宴賦贈主人 1 2
奉 呈肥後侯
次韻関邑原玄同見寄 1 2
賦松寉篇壽仲兄士眞六十初度
寄題三原宇都宮生潮鳴館

暮 春紀公淵宅宴集同諸子賦得十一眞
暮春宮田士祥宅値凍滴師自東武帰西京席上賦此呈之 1 2
咏蚊

吊織田塚 并引 1 2
五日送山士諧重之西京 1 2
寄題服士迪峨洋閣

夏日左元鳳至喜而賦之 1 2
中秋無月

十六夜夜半月稍清明次嚮山士諧見寄韻以謝答 1 2
丁酉秋上岐山有感作
賦鴨水弄月兼寄草盧先生

海 楼賞月
十六夜対月

古 戦場
歳晩寄長安平師古

御 溝新柳
賦早春残雪

春日宮田士祥看雲栖集分體得七言律刪韻 1 2
左元鳳金谷街別荘同諸子賦得十三覃

茶室口号 1 2
春晩常在寺集山士諧携具得十三元
送人之芳野看花

同 金龍上人及諸子遊小房山得二蕭
仲夏圓得精舎集得十一眞

閏 七月十六日遊唯敬精舎同諸子賦呈刹主黙湛師
左元鳳自京帰訪余余時伏枕賦此兼謝嚮見寄之意 1 2
冬日聞某文学投宿嘉納駅宮田士祥宅力病往訪席上賦呈之

冬日森求玉宅同某文学及宮田士祥左元鳳分題得雪美人八庚 1 2
又雪佛

終 わり
裏 表紙

【第三冊】
表 紙

 五言絶句
稲 葉山
題石鏡

大 堤曲
咏史
悼亡女
延平津
聞雁

寄 某生客東都
賦楊柳枝送人
閨怨
訪山人

采 蓮曲二首
金龍上人義茶亭十勝
右賞菊井
右高台寺

右 八阪塔
右祇園祠
右圓通殿
右緑鴨河

右毘盧閣 1 2
右深艸里
右丹鳳城
右五台山
右毉王殿

右 多宝塔
右白山祠
右天女宮
右犍稚楼

右 翠霞峯
右嘯月亭
右観魚橋


 七言絶句
宰 相藤公賜壽詩一章謹賦此奉謝
漢宮詞 1 2
江亭春晴
送人之洛陽

梅花落 1 2
巫山高
采蓮曲

登賀氏十八楼同諸子賦得十灰 1 2
哭森昌齢
涼州曲

呉宮詞 1 2
奠河遇雨
秋日作

秋日送客 1 2
秋夜懐故人
贈寒松館主人

夜猿啼 1 2
秋夜聞雁
待梅

壽長安医師奥邨翁八十応需 1 2
暮春送客
石鹿懐古

観韓客 1 2
侠客行
送人之越中

訪隠者不値 1 2
塞上曲
青楼曲

稲葉山 1 2
寄懐毛利生客羽州三首 1 2
早春謾成二首俲長慶體
春夜聞篴

東 山看花有感作
送人経岐岨還武城
邨中閑歩

春 日紀公淵宅集分題得松間花限韻
春日満願精舎集同諸子賦得十二侵
山房春興

次 黙湛師見寄韻以謝
上巳作
賦松寉篇為某生壽応需

山 中尋花
長堤芳艸
宮人斜

春 思
正伝寺観牡丹石
北海先生再枉過弊盧賦此呈上

鳳 河泛舟同諸子賦得一先
五月十三日送北海先生帰京師
感旧

長 安曲
春日野歩

訪山僧不遇 1 2
同金龍上人及諸子遊小房山帰路分韻得一東
元日作

上巳日寄懐北海先生 1 2
山其乙留滞京師将帰不果却有此寄

題 眄柯亭主人蓬島石応需
夏日訪山房 1 2
夏閨怨
初夏上稲葉山

雨後晩凉 1 2
月下聞砧次韻司馬子紀
雪中探梅

丙申元日作 1 2
壽君山先生八十初度
哭梅花道人

哭媳婦 1 2
夏日邨居
賦得海屋添籌壽佐渡人

山寺避暑 1 2
無題
大江穉圭見恵二令郎詩不勝唱嘆聊一絶以謝之

九 日値雨二首
関邑途中作

多郎里茶店送北海先生帰京 1 2
送邨上氏帰桑城

和大江穉圭見恵二令郎見寄三首 1 2
寄懐草盧先生
次韻滕子効留別作

送 金龍上人同諸子賦得開字
春日送人之京二首

春 日早行
春 日同諸子訪左元鳳得花字
同 金龍上人及諸子遊信溪山得山字
神戸氏庭賞牡丹 1 2
暮春宮田士祥宅送笙洲和尚帰京同諸子賦得十四鹽

従軍行二首 1 2
孤邨燈
水亭避暑得九青

子規啼同韻 1 2
秋閨怨
不出院僧

七夕寉林寺集同諸子賦得臺字 1 2
七夕夜深
秋閨怨

哭垣生 1 2
看雲楼宴集北海先生将帰京見恵留別之大作席上卒次其韻以謝青顧之意又先生将探奇養老山故及之

経故人旧宅 1 2
極楽寺集與諸子同賦湖中値雨得五歌
新雁

送山士諧兄弟之京二首 1 2
初秋石楽民亭集席上同諸子賦得一東
暮春郊行

砕 釆薺(げんげ)
終 わり
跋(宮田嘯臺) 1 2
跋(佐合龍山) 1 2
跋(矢橋赤水) 1 2
奥 付
裏 表紙

『盖松紀行』かさまつきこう

 遺文『笠松紀行』は、記された年月を詳らかにしませんが、鼎石七十代前半の晩年、美濃国が洪水と伝染病に襲はれた年として寛政元年(1789)年秋の出来事のやうに思はれます(調査中)。原本の行方は不明ですが、 漢詩人津田 天游の序文題詩を付して製本され、訓点を施して書き写した(天游自身の控へ?)と思しきコピーが、現在岐阜県図書館に所蔵されてゐます。
 鼎石の没後、原稿はおそらく形見として鳳鳴詩社の後輩だった宮田嘯臺の許で保管されてゐたのでありませう。序文によれば大正時代、宮田家から円徳寺の先 々代住職松田金堂氏の手に渡り、津田天游の目に触れるところとなったやうです。その後、昭和に入って再び借覧する人が現れ、本文のみを謄写版で翻刻した 「私家刊行版」が、また別本として県図書館に伝はってゐます。
 円徳寺の所蔵する古文書資料は現在、岐阜市歴史資料館に委託されてをり、照会してみたのですがみつかりませんでした。管理人が古書展で購入して蔵してゐ る 『天游詩鈔』が、序文を仰いだ松田氏の蔵書であったことから宿縁のやうなものを感じてをりましたが、残念ながら原本は金堂氏没後、これらの古書とともに 散逸してしまったのかもしれません。
 ここには津田天游の序文と題詩を付し、本文は現存する二冊の異同を校勘したものを適宜改行して掲げました。コピー不鮮明のため一部判読し辛い個所があり ますが、皆様からの刪正を乞ふ次第です。(2011.1.25管理人しるす)


岐下詩人山田鼎石寛政中歿其家絶不祀。余甞旁披而得墓碑於浄安寺荒叢中、悵然賦詩以弔焉。客秋金堂松田[ ]得其遺稿一篇於加納宮田氏[ ]絶無而僅有者也。装釘功成来請題余所作之弔詩乃記其由茲重録云。
 大正七年 著雍敦牂三月
  天游 田 発 識

岐下の詩人、山田鼎石、寛政中に歿して其の家絶えて祀らず。余甞て旁披而して墓碑を浄安寺の荒叢中に得、悵然として詩を賦し以て弔せり。客秋、金堂松田[ ]、其の遺稿一篇を加納宮田氏の[ ]に於いて得、絶無而して僅かに有する者なり。装釘功成り、来りて 余に作る所の弔詩を題することを請ふ。乃ち其の由を記して茲に重ねて録すと云。
 大正七年 著雍敦牂(戊午) 三月
   天游 田 発 識

 弔山田鼎石墓

山容鬱鬱水湯湯 [ ]勝髣髴古洛易 秀霊鐘處人如玉 含英 咀華燦鼎石
先生見既角江門 才子走且僵遺編 今日想偉器誰能  立伝 壮吾郷載筆
多年侵雨露東西 梵刹尋細故固緑 未了宿志酬始掃 鳳河河畔 墓隧道
春浅日色寒杜碑 百年無後護蓋棺 名定所栄枯極日 淒涼雲樹 暮於乎
家亡祀絶有餘悲 没人憑弔恨無涯 顕晦闡幽文士事 此以 願受地下刻
浄声嗚咽春動息 遠篷揺曳昏長坡 英魂一去呼不返 唯看与秋山谷声


又有墓前作十絶 今録其七

鼎石先生古墓前 夕陽楼樹絶香煙 残碑積蘿無人掃 蕭寺 春[ ]一事耳 

墓門寥寂鳳河濱 二月風寒未春 桃棘枸苔人々去 残碑 一片一伝神 

詩草堂々圧一城 江門才俊見先生 悠々歳月香美絶 謹[ ]当年鼎石名 

如今編素各多難 孰向祠壇気吐虹 鼎石以来無鼎石 寒煙[ ]々 続禅宮 

手捨残碑孤永吁 祗林河處聴啼鴣 磬沈魚黙春蕭寂 不見 吟壇考丈夫 

曽慕高風編小伝 記胸以事代麁奠 回[ ][ ]以故春 孤向葉[ ]揮涙見 

一代詩豪安在哉 白楊風呤[ ]鴉哀 莓祠弔罷日将夕 欲去 躊躇駐幾回 

此実伝明治戊申(41年)二月既作 今探簏底第録不敢[ ][ ]要存当時感懐矣
  発 又識

[ ] 解読中

  赴盖松紀行 (笠松に赴く紀行:原漢文)

 今茲夏秋の交(変り目)、瘟疫大いに行はれ、荊妻媳(嫁)婦もまた之が為に悩まさるれ、殆ど危篤に及ぶ。顛側、人を須(ま)つこと数旬にして已(や)み 復常す。他方の旧知の看候(見舞ひ)する者もっとも多し。爾後、往きて之に謝せんと欲するに尋(つい)で嫂の凶に遭ひ、而して余もまた善く病めり。是(こ こ)を以て果たさず延いて今日に及ぶ。

 維時(これとき:今)十月中旬三十日なり。天気快豁、和暖相ひ催し、誠に「十月江南天気好し、憐むべし冬景春華に似たるを:白居易」と謂ふべし。是に於 いて孤杖を曳き一僕を従へ、岐の南門を出て路を美江大悲閣(美 江寺)門前に取る。

 往くこと数百歩、老父丁壮皆出でて郊隴に耰(たねま)き、婦妻児女相引いて南畝に餉(かれい:弁当)す。正にこれ麰麦(大麦)播種の候なり。また行を進 むこと数百歩、途燕尾するの処に当って地蔵堂あり。西のかた横斜の小径に就いて往くことまた復た数百歩、而して数椽の村居あり。之を上加納村と謂ふなり。

 茲より圓徳寺門前に出る。門前に禁榜(立札)建つ。此 れ昔○○年中織田氏の賜ふ所なり。門内また大樹百余尋(ひろ)なる者あり。此はこれ甞て金龍道人所有の銀杏にして空翠に聳え、かつ(源)重之の句なる者な り。此の句、今に至って人口に膾炙す。覚性師に見(まみ)ゆ。師近く慶事あれば不腆(粗品)を以て賀を為して去る。門を出て斜めに往くこと半里、皆な竹居 盤屈して径を為す。

 此れを過ぎれば則ち四顧曠然として左右みな平田なり。禾稼すでに熟して穫りて喬扞(いなこぎ)に曝す者あり、穫らずして田に在る者あり、之を農夫に問へ ば曰く、穫らざる者は検吏いまだ按検せざる故なりと。前路圯橋(土橋)あり、野水清潔にして掬すべきに堪へたり。故に字地に「清水」と曰ふ、宜(うべ)なるかな。

 橋を過ぎれば則ち人屋街を為す。是れ即ち加納城中な り。数百歩にして菅神庿(天神廟)の左側に出づ。庿傍の紅樹、錦繍を曝すが如し。其の幽致もまた愛すべきかな。杖を植(た)てて一絶を作る。其の詩に曰く 「庿前の紅樹、朝霞に映ず。道を解すること二月の花より紅なり。緩歩、杖に倚って吟賞して去る。何れの人か相見てまた車を停めん」と。

 是れ従り直ちに城街に出でて森球玉を訪ふ。球玉、余を 留めること殷勤なり、然れども盖松に赴くの意、急迫なるを以て怱卒にして去る。また田士祥(宮田嘯台)を訪ふ。士祥、逓火(十能)を以て火を搬ぶに遇へり。余 が至るを顧み、之を迎へ揖して曰く、いま将に茶炉中に火を加へんとす、願はくは一椀を喫して去れと。また固辞して去る。また瀧平なる者を訪ひ回礼を為して去る。此の数子を訪ふ者は皆、病中看 候を為せし所の人にして之が為に回謝するの故なり。

 城下を過ぎること十餘街、欄橋あり。橋畔、茶店あり。余、去春相過ぎるの時、白藤花盛んに開き庭中半ばを以て架を為す。藤花長きこと六七尺、裊々(じょうじよう:嫋々)とし て地に着く。壮観と謂ふべきなり。今や初冬、寂寥として見るべものなきなり。

 店を距つこと数十歩、両岐の処、を置く。勒曰く「左 は岐岨駅道、右は熱田駅道」盖松は即ち熱田駅道中なり。碑南、松列りて道を夾むこと五百弓(三千尺900m)ばかり。之を名づけて八街駅道(八丁畷)と曰ふ。余、脚歩を以て之を試むるに果たして然 り。

 之を過ぎて川手村に至る。また茶店あり。店主七旬齢 (70歳)、余と雁行す。少時よりの旧知にして頗る学才あり。老いて農に隠る者なり。乃ち余を見て相揖し迎へ入れて古昔を談ずること暫時。婦人傍らに在 り、茶を汲み煙具(たばこ盆)を供し欵待丁寧なり。談、余が『鼎石詩 集』の 業あるに及ぶ。曰く、「児輩をして之を一読せしめんと欲す、庶幾(ねがはく)は暫く之を貸さんことを」と。余曰く「諾。家蔵する所の書、今なほ数部あり、 以て一部を授与せん」と。翁喜びて先づ謝辞を述べ、また帰時を約す。話を為すの間、一絶を賦して去る。其の詩に曰く「共に憐れむ双鬢半ば糸の如し。曽遊を 追憶すれば彼の一時。邂逅即ち今、情尽きず。猶ほ将に餘意を帰期に付さんとす。」と。

 店を出ること数十歩、道の左に一橋あり。之を望むれば径(わたり)纔かに二尺餘、長きこと数十丈に及ぶ。高架虹の如し。郷人荷担して来往すること平地の 如し。余、傍より之を観るに寒心して過ぐ。過ぎて歩を進むこと一里餘、村舎あり平田あり、斯に至って老脚頗る疲る。路傍に草坐して少(しばら)く憩ふ。平 田を望むるに多く成熟を得ず。種々短髪の如く然り。余、怪しみて之を郷人に問ふ。曰く「是れ皆な七八月の間、馮夷君(洪水)虐を為す所なり」と。余曰く 「嗚呼、何ぞ其れ甚だしきや」。太息して過ぐ。

 前程一川あり、土橋を成す。以て人を渉す。此の地、封界の処にして川上また一を建つ。刻して曰く「川中より以北、加納侯の治むる所、川中より 以南、郡官の治むる所なり」と。故に之を名づけて界川(さ かひがは)と曰ふ。

 之を過ぎて道左に円池あり。一夏日、驟雨の時、路に熟 せざる(不案内)の人は動(やや)もすれば溺死すると云ふ。如何となれば則ち界川の水溢れ出づるときは則ち蕩々乎として行程を没す。駅路もと円池を匝(め ぐ)って斜めに通ず。之を知らずして詞f(裾まくり)して直ちに渉れば是(ここ)を以て失脚して陥溺する者まま有り。界川より盖松に至る五百歩許りなり。

 盖松は公邑にして所謂郡官の治むる所なり。数百の商 家、此に居す。南畔に巨川ありて泉源は岐岨に出で、而して下流は勢海に達す。是に於いて勢州交易の商船、日々来往す。故に商家最も醎醝(鹹鹺:食塩)に利 あり。

 此の地の杉山氏なる者、余が媳婦の兄なり。即ち之 (ゆ)きて投宿せんと欲す。適(たまたま)主人の他へ之(ゆ)くに遇ふ。婦人、使ひを馳せて余が至るを告げしむ。少焉(しばらく)して主人帰る。共に寒暖 を語るの間、日は将に晡(ひぐれ)ならんとす。而して婢、已にして晩飧を供す。食し終へて浴を為す。而してのち主人と脚炉に據りて相語ること暫時、夜柝 (拍子木)初更を報ず。主人乃ち余に告げて曰く「隣家に骨董市あり、子、往きて之を観んや否や」と。余曰く「是(ぜ)なり」と。乃ち主人に随いて往き、華 人の画一幀を得て還る。還れば則ち下婢また薬石を供す。喫し了りて戸を開ければ則ち参(オリオン座)横たはり月もまた将に落ちんとす。乃ち寝に就けり。

 翌日早起し朝餐未だ熟せずして屋後の花園に至り盤桓(ぶらぶら)す。是れ石氏の金谷園(晋の石嵩の金谷園)にあらずと雖も、中にまた多く奇樹異艸を植 う。然れども時是れ陽春にあらざれば霜圧し風砕けて荒蕪彫零せり。唯だ一株の茶梅(つばき)特に顔色あり。清粧艶麗、燦然として白玉の如し。愛すべきか な。婢、朝餐を告げに来る。飯後、同郷の重三郎なる者、余が止宿を聞きて訪らひ来る。主人とともに三人、古器を品し少(しばら)く時を移す。

 下婢、また午飯を供す。飯、了れば則ち僮僕すでに帰を促す。主は信宿(連泊)を勧。余、辞するに幹事(用事)あるを以てするも主人、可ならず。卒(に は)かに之が為に再来を約して帰る。

 帰路は許(もと)の如し。川手村に至り、また復た脚力大いに疲れ、双脾すでに吊疼を為す。右に孤竹の杖を曳き左は僮僕の肩に攀づ、蹣跚、而して纔かに茶 店に入りて休むに此の日、翁不在なり。婦人の欵待は前の如ければ余、長凳(ちょうとう:長椅子)に踞る。躬自ら両脾を按摩すること良(やや)久しうす。吊 疼頗る寛ぐを覚ゆ。

 店を出でて加納駅の欄橋上に至る。橋北は比屋数椽、皆な餺飩(ワ ンタン)を売る。餺飩は乃ち此の地の名産なり。故に往還の人争って以て之を買ふ。余もまた嚢銭を探り数枚を買ひ得て帰る。意は只だ児孫に与へて以て喜びを 取らんと欲するのみ。
 
道傍捷径あり。字に「新田(あらた)」と曰ふ。固より管 路にあらず、唯だ農人往来の私路を以て、妄りに旅客ををして通行せしむるを許さず。故に竹門を設けて常に関(とざ)せり。今や幸ひに禾稼登場の候を以て竹 扉之が為に開けたり。斯に至り日すでに虞泉(ぐせん:日没)に薄(せま)り、連山雲起こりて雨意甚だ迫れり。故に路を新田に取って怱々として裳を褰(か か)げて走る。此の時に当って過(あやま)って「君子径(こみち)に由らず」の教戒(:論語)を犯す。畏るべきかな、畏るべきかな。

 上加納村に至って雨脚乍ち来る。村舎に入り而して外套を脱ぎ、雨具を備へ出づ。近歳加納城下の駅邸、 陽には爨婢と名づけて陰に倡妓を貯ふ。岐下の諸少年、彼に冶遊する者最も多し。余を見て回避、途を易(変)へる者あり、手巾を以て面を裹(つつ)み、傘を 傾けて身を隠す者あり。此の如き者、連綿として断たず、妓観の繁華また知るべし。是に於いて独り自ら衰老を嘆ずるも得々として帰る。余は唯ただ児孫の出て 相迎ふるを喜ぶのみ。      鼎石山瑛 識


【付記】鼎石の自宅(本町)より加納宿までは4km、笠松までさらに4km、都合約8kmの行程。
    末尾に記載せる“飯盛女”のゐた私娼宿は、現在地に再移転した金津園の起源と思しき、当時の加納宿の名物であった。
    「餺飩(餛飩?ワンタン)」については不詳。


【関連資料】濃北紀遊

【関連資料】塋域の現状について。2011年1月20日現在の様子を掲げます。

  
浄安寺(岐阜市中大桑町) 左手奥の無縁仏墓石群のなかにあります。

    
発見時の様子。

    

 



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