菅茶山『筆のすさび』(安政四年 [1857]刊行) 序
余かつて漢人の記事を謂ひて「随ひて聞き随ひて録す」とす。もしその虚実の有無に至りては、則ちこれを聴き読む者の各自これを評論す。邦人は則ち然ら
ず。つねに人の談話を聞くに、すなはち虚無の二字を胸中に置く。それ疑ふべきは、実と虚とを問はず、臆断は録さず。これ奇談異聞の、伝はらざる所以なり。
あに東西人気の根、強弱有らんや。まさに時世人情の然らしむる所ならんや。
但し我が茶山菅翁は則ち然らず。
文化戊寅(十五年)、余、山陽先師の西遊に従ひ、神辺駅に至り、始めて翁の謁を得、遂にその塾に三旬許りも寓す。翁、日夕飲酒すれば、輙ち必ず余を呼ん
で侍さしむ。酒間、問ふに異聞奇事をもってし、国の産に及ぶ。余もまた偶ま問ふにその著す所の「冬日影」を以てす。翁咲ひて曰く。
人心は率ね遠きを貴び近きを賎しむ。新しきを喜び陳きを厭ふ。近来、西洋学を重んじて、漢学を軽んず。擩染(濡染:カブレ)の至りなり。或は被髪侏離の
語(解し難い外国語)を以て至極となす。吾これに懼れをなして作る也。今は無用なれば、これを(甲乙の下の)丙丁に付す、と。
一日、奥(奥州の)のひと某来れり、謁を投じて日く。さきに西遊すれば、今また東還す。一たび芝眉(尊顔)に挹(揖)して(拝謁して)帰らば、則ち吾が
願ひ足れりと。翁、時に年まさに七十、疝を患ふ。辞して見(まみ)えず、ただ命じて駅中に舘(やど)らしむ。既にして夜に入る。某また来りて曰く。先生病
ひ有り。如何ともすべからず。願くは塾中の諸君と、詩をもって会すること一餉時ならんことを。何如。すなはち相ひ共に韻をたたかはせて談咲(談笑)す。こ
れを頃(しばらく)するに、翁手に自ら煙盤を提げて来り坐す。火光を蔽ひ、一問一答、自ら膝の席に前(すす)むを覚えず。某つひにそれ翁なるを知らざるな
り。
一日、翁余に謂ひて曰く。吾子必ずや筆墨を以て名を成す者なり。僕に三訣有り。これを授けんや否や。余、席を避けて曰く。敢へて請ふなり。すなはち曰
く。
凡そ文筆を以て業と成さんとせば、飲食を以て陰晷(時間)を費やすなかれ。ただ酢と醤とを小甕にて調和し、投ずるに甲州白梅、乾蘿菔(大根)等を以てせ
よ。春月に至らば、或は点ずるに山椒芽を以てすれば、以て酒を下すべし。以て飯も過ぐべし。これ一訣なり。
凡そ遊び始めの境には、疲れると雖も、輿に乗るなかれ。往々の奇景を錯過す。これ二訣なり。
凡そ儒を以て名を得たる者は、諸方より必ず多く詩文の改正を乞ふを寄せらる。之を改正するに法有り、知らざるべからず。これ三訣なり。
(われ)曰く。改正の方とは如何に。翁咲ひて答へず。固く請ふも、つひに言はず。けだし余をして思ひ之を得さしめんと欲するなり。
これ今を距つること三十又九年。翁の世に有りし文政丁亥(十三年)より三十年かな。このごろ書肆某、翁の随筆四冊を得て、携へ来り一言を乞ふ。ああ、小
子何ぞ翁の書に言を弁ずるをもって足らんや。しかるに強ひて匈(さわ)ぎて止まず。あに余をもって猶ほ翁を識るに及ぶなりとか。この著、翁に在りては、則
ち言ふ所の桂林の一枝。昆山の片玉のみ。而してまたもってその用心異常を見るべし。因てこれを書してこれに与ふ。或はもって随筆の一則を補ふに足りんや。
安政丙辰(三年)重陽(九月九日)雨窓
後進 後藤 機
余嘗謂漢人記事。随聞随録。至若其虚実有無。則聴読焉者各自評論之。邦人則不然。毎聞人談話。輙先置虚無二字於胸中。其可疑者。不問実与虚。臆断不録。是
奇談異聞。所以不伝。豈東西人気根。有強弱邪。将時世人情所使然也邪。但我茶山菅翁則不然。文化戊寅。余従山陽先師西遊。至神辺駅。始得謁翁。遂寓其塾三
旬許。翁日夕飲酒。輙必呼余侍焉。酒間。問以異聞奇事。及国産。余亦偶問以其所著冬日影。翁咲曰。人心率貴遠賎近。喜新厭陳。近来重西洋学。而軽漢学。擩
染之至。或以被髪侏離語為至極。吾為之懼而作也。今無用。付諸丙丁矣。一日奥人某来。投謁日。向者西遊。今也東還。一挹芝眉而帰。則吾願足矣。翁時年方七
十。患疝。辞而不見。但命舘於駅中。既入夜。某復来曰。先生有病。不可如何。願与塾中請君。以詩会一餉時。何如。乃相共鬮韻談咲。頃之。翁手自提煙盤来
坐。蔽火光。一間一答。不自覚膝之前席。某竟不知其為翁也。一日翁謂余曰。吾子必以筆墨成名者。僕有三訣。授之否。余避席曰。敢請。乃曰。凡以文筆成業。
勿以飲食費陰晷。唯調和酢与醤於小甕。投以甲州白梅。乾蘿菔等。至春月。或点以山椒芽焉。可以下酒。可以過飯。是一訣也。凡始遊之境。雖疲矣。勿乗輿。往
々錯過奇景。是二訣也。凡以儒得名者。諸方必多寄詩文乞改正。改正之有法。不可不知也。是三訣也。日改正之方。如何。翁咲而不答。固請。竟不言。蓋欲使余
思而得之也。此距今三十又九年。翁有世文政丁亥三十年矣。頃書肆某得翁随筆四冊、携来乞一言。鳴乎。小子何足以弁言翁書。而強匈不止。豈以余猶及識翁也
歟。此著在翁。則所言桂林一枝。昆山片玉耳。而亦可以見其用心異常矣。因書此与之。或足以補随筆之一則也耶。
安政丙辰重陽雨窓
後進 後藤 機