梁川星巌 『西征詩 星巌乙集』
(せいせいし せいがんおつしゅう)
1829 文政12年刊行 全2冊
序
鎮西の山、遠く して之を望めば数点、天外に在るが如し。而るに往きて就けば則ち隔絶の者馬関(下関)の一衣帯水のみ。鳴呼、是れ即ち以て公図の詩に喩ふべし。公図の詩、神 遠く韻高く、迥(はるか)に凡境と別つ。而して人々の意ふ所を謂って、必ずしも人と遠きには非 ず。争ふ所は尺寸の間に在り、人自ら学ぶ能はざる耳。然れども功を用ふること専らに、力を得ること深きに非ざれば、焉(ここ)に造り(いたり)て之を久しう する能はざる耳。吾、海内に「詩」を以て家に名づくる者を観ること多し矣。或は儇佻(けんちょう:すばやい)自ら喜んで面 目鄙近、(それを)否とするならば則ち粗険にして硬率、人の心脾に入るに足らず。能く此の 二病を除く者、独り公図のみ。公図は清羸、詩を嗜むこと命の如し。其の婦も亦、吟を解し、夫妻相携へて書を嚢(ふくろ)にし、筆を橐(ふくろ)にし、偏ねく 西南の山水に遊ぶ。意に適すれば輙ち留滞し、古人の一集、意に可在る者を獲れば枕籍して之を読む。婦の餐を報じ衣を添ふるも顧みず。其の自ら為(つく)るに及べば、 則ち古の歩趨を諳んじ、而して会するに己の神理を以てし、吚[口憂](いゆう:苦吟して)終夕、輙く(たやすく)筆を下さず。険題難題と雖も、出すに平穏を以てし、愈々錬って愈々平、 雋永(せんえい:滋味)を期す。淺噪、名を噉ふ(くらふ)者の能く弁ず る所に非ず。能く時調に異なる所以なり。公図少く(わかく)して関左(江戸)の名彦と周旋し、又、西州の諸耆宿に歴抵し、終に清客と相唱和するに至 る。其の心、試に服閲する者幾人ぞや。顧るに余を以て相ひ質証すべき者と為す也。近ごろ西遊作る所を収拾し、評して之に序せんことを請ふ。余、篝燈夜読、 会心に逢ふ毎に、筆を戛して(たたいて)「妙」と称す。妻児、睡る者皆起く、葢し余の言はんと欲する所にして未 だ言はざりし者、公図之を尽くせり。余、亦曽て西筑豊に遊び、二肥薩隅を渉り、諸を(これを)奇秀の境に観る。公図に比すれば較(やや)闊くして且多 し。然れども親を念ひ家を思ひ、牽掣せらる所多く、悉くは其の勝を領する能はず。之を公図の家を挈げて(ひっさげて)行き、徜徉(しょうよう: さまよふ)留止する者に視れば、間有り矣。猶ほ余の詩を攻むる、公図の専らにして 且つ深く久しきには如かざる也。特に夫(か)の足、未だ赤馬を踰えざる者には愈(まさ)れる耳。公図 請ひて余も拒まざる所以なり。(原漢文)
山陽外史頼襄撰
【頼山陽書翰】(梁川星巌宛 文政10年閏6月24日)
西征詩序、太(はなはだ)逼迫せられ候 へども、発靱期迫り、早く埒明き候て、上申す可くと、今朝以来、閣百事を束ね書き畢り候。文は「只君与吾」と云ふ様な処を、少し泛然とする様に(ぼやかす様に)致し候。其外 は、カクヨリ(斯くより)外致し方無き候。必竟(畢竟)田錦城(太田錦城)が序、アマリ 筋骨を暴き候て、人の怒を招き入れ候より、ビク付出し候事也。錦序ナカリセバ、拙序は、何も耳ざわりはなき也。よし、耳にさわり候ても、よき事也。八方の 機嫌を取り候て、何処に名を成し身を樹てん乎。たとへどの様に機嫌取り候ても、兄と名を争ふ者は、集のうれるはいやに存ず可きに候。八面に敵を受け候様に 相成り候ても、拙は御身方に相成可く候。ほめ過にあらず、公論・定論、を以て申し候也。浩然、御出し成さる可く候。今日雨晴れ候て、月峰へ参る可く、明日 発靱とても、今日は閑暇なるべし。余は其の節に期す。草々
古詩は、只今拝見仕居候。明朝迄には、看畢り候也。(候文書き下し)
(文政十年)閏六(月)廿四日
星嵒様
【頼山陽書翰】(梁川星巌宛 文政10年閏8月)
未だ晴朗なら ず、遊山之挙決し難き候。
私、詩之序、梓 出来候ハバ、一閲仕り度く候。ウメ木(埋め木したい)の処もあり。今夕酔ザマシに参る可くとも存じ候。瓢明き(ひさご空き)候ハバ、此者 に御附け下さる可く候。いつかの杖頭(酒代)百銭も、ヨク覚テヲル奴、其儘に御返しなし。十五夕は必ず待ち奉り候。 今夕も無月と相見へ候。(候文書き下し)
十三夕 山陽
星嵒様
【村瀬藤城書翰】(梁川星巌宛 文政12年閏6月13日)
尊翰捧読、起居御勝常奉賀侯。小生無事ニ而、四月上旬に帰郷、早速に趨謁仕り、萬緒可申上存侯処、柳兄(神田柳渓)申候は、其にては却テ悪敷、先ツ我方より
委曲を伝へ可申侯間、上有知行は、延引可然トノ事に付、手帖も呈上不仕、今日に至り申侯也。如尊命萬事柳兄に預け可申侯間、左右に御承知可被下侯。小生は
固より、不願寒盟候得共、先頃貴翰見読ニ付、無拠疎遠に及申侯也。老兄に隔意無之儀ニ候は、小生は勿論に御座侯。依旧友誼は如龍如雲奉希侯。尊大人久病、
定テ薬餌坐臥萬般老兄之一身ニ蒙り可申、御労心奉推察候。其労心ニ付、老兄之病ヲ引出サヌ様ニ、御用心専一ニ奉祈侯。
○(石原)東
隄より之刻詩料弐円金慥ニ落手仕侯、東隄之主意も、委細承知仕侯。
○林良画一巻、石摺数張、明詩抄本一冊、三品共ニ、慥ニ落手仕り侯。
○西征詩ハ、当正月ニ彫刻落成仕候得共、日野(資愛)公
序文ヲ賜リ候ニ付、彼是延引ニ及申侯。製本近々ニ出来、鴎社諸兄弟へ分配可仕侯。右出来次第ニ、小生直ニ老兄方へ拝趨、其節先達テノ書画幅及諸算清還可仕
侯。小生此度ノ帰郷ハ、逗留僅ニ五七日之積リニ御座侯処、本家身上向之事ニ付、相談ニ加ハリ、発程大ニ延引仕侯。小生も頼翁及諸子之勧により、聖護院之地
面ニ一廛ヲ構へ可申ト、追々工夫を着け、当二月既ニ一決仕リ、幸ニ古家有之侯ニ付、地面共ニ買取可申様、引合相済申侯。此事老兄ニも相談可仕存侯得共、当
春之御手帖に付、見合申居候。此度ノ遊歴も、右之卜居一件ニ付、発程仕り侯。小生事東西走波已ニ年四十ニ余リ、昔之詩禅ニは無之、唯事業ニ耳心情ヲ寄セ申
侯。上京以来詩数百五六十首も可有之、近々抄写入電矚可申侯。書余は、帰一子ニ御聞可被下侯。草々頓首。
(文政十二年)六月十三日
卯改名 緯 拝上
藤城吟兄盟 台下