三宅樅臺翁碑銘
翁諱守觀、字海岳、稱復輔、後改稱左平、三宅氏、樅臺其號也。美濃國稲葉郡加納町人。武儀郡上有知村小坂宗十郎君第三子也。安政二年六月、年三十九入螟於
三宅左兵衛君常家因冒其氏。三宅氏爲加納舊族。九世祖三宅孫六郎家重住厚見郡沓井。慶長之初、徳川家康公用家重之言、築城於沓井改稱加納。三宅氏之居適當
其地乃徙住市街。由是免地子及助役。子孫蝉聯占其地云。翁幼好学、從村瀬藤城受業、後執贅於幕府儒員佐藤一齋、於津藩文學齋藤拙堂。明治之初、補本藩出
仕、爲文学ヘ授。藩主永井公屡召諮詢國事、六年十月、以ヘ授心得、爲遷喬義校ヘ授。七年辞職。八年請官開樅臺私塾、下帷ヘ授。初翁之來嗣三宅氏也、攜授業
生徒ヘ、至是遠近子弟來學者滋多。翁誨人諄諄不倦。其講説不泥訓詁。指授大義使人思而自得。翁爲人朴實寡言、於世澹然無所求。如飲食衣服、一任家人所供、
或珎膳盈案、所職不過一菜羹。蓋非不強食之、將食而如忘之者、家居無事兀坐一室、潜心耽讀。有客在傍、不曽知之、久之始覺之、驚起作禮、談笑盡歓、雖祁寒
暑雨、終日徹宵、研精不休、嘗冬夜讀書、霜気透膚、所擁手爐火燼、灰冷亦不覺之。聞厨碑起汲井、始知天明。冬中如此者、數矣。其刻苦可知焉。平居讀書、随
讀随抄。所手抄數十帙、大日本史、日本外史等、皆所親謄冩。明治廿九年七月七日、罹病没、享年八十一。葬於加納町欣浄寺之先塋。配三宅氏擧四男四女、長曰
太郎吉、承家、次月歌之助、別爲家、次曰福三郎、輔兄整理家政、次曰巴亦別居、長女適羽島郡正木村野口嘉左衛門、二女夭。三女適大垣町小山常次郎、四女適
加茂郡今村村上吉尚。翁學該和漢、又研覃刑律、餘暇好詩賦、最長古詩。晩年繙貝葉、頗如有所得。又好爲山水之遊、毎花晨月夕、擁門人四五輩徜徉行遊、以爲
楽、所著有山陽詩抄集解。樅臺詩抄。今茲門人丸尾錦村、持翁之行歴、來屬余碑文。余曰余之不文不足以不朽翁、辭之一再。錦村曰君與翁爲同門。亦翁遺嘱也。
敢請。余不復辭、乃爲之銘曰。
貌朴言訥、爛漫天眞、雅量容物、淳風孰倫。君子人耶、君子人也。
明治三十一年五月 大垣野村煥識 恵那丹羽金吾書
三宅樅台翁の碑銘
翁、諦は守観、字は海岳、復輔と称し後改めて左平と称す。三宅氏。樅台はその号なり。美濃の国稲葉郡加納町の人にして武儀郡上有知村、小坂宗十郎君の第
三子なり。安政二年六月、年三十九にして三宅左兵衛君常家に入螟(ニュウメイ:養子)し、よって其の氏を冒(おか)す。
三宅氏は加納の旧族たり、九世の祖三宅孫六郎家重、厚見郡沓井に住む。慶長の初、徳川家康公、家重の言を用いて城を沓井に築き、改めて加納と称す。三宅
氏の居、適(たまたま)その地に当たる。乃ち徙(うつ)りて市街に住む。是に由りて地子(地代)及び助役を免る。子孫蝉聯(ゼンレン:連なり)としてその
地を占むと云ふ。
翁、幼にして学を好み、村瀬藤城に従いて業を受け、後、贅を幕府の儒員佐藤一斉に、津藩の文学(学官)斎藤拙堂に執る(入門する)。明治の初め、本藩出
仕に補せられ文学教授となる。藩主永井公しばしば召して国事を諮詢(シジュン:はかる)す。
六年十月、教授心得を以て遷喬(栄転)、義校の教授となる。七年職を辞し、入年官に請うて樅台私塾を開き帷下(開塾)して教授す。初め翁の来りて三宅氏
を嗣ぐや、授業(弟子)の生徒を携へ来り教ふ。是に至って遠近の子弟来り学ぶ者滋(ますます)多し。
翁、人に教ふるや諄諄として倦まず、其の講説は訓詁に泥(なず)まず、大義を指授し、人をして思はせ自得せしむ。翁、人となり、朴実にして寡言、世にお
けるや淡然として求むる所なし。飲食衣服の如きは家人の供する所に一任し、或いは珍膳案に満つるも、食ふ所は一菜一羹(あつもの)に過ぎざるが、けだし強
いて之を食せざるには非ず、終に食はんとして之を忘るる者の如し。家居無事なれば一室に兀坐(コツザ:正座)し、心を潜めて耽読す。客の傍に在るあるもか
つて之を知らず、之を久しうして始めて之を覚り、驚き起ちて礼を為し、談笑歓を尽くす。祁寒(キカン:激しい寒さ)暑雨といへども終日徹宵研精して休ま
ず。かつて冬夜書を読むに、霜気膚に透り、擁する所の手爐(火鉢)の火燼(おき)、灰冷するもまた之を覚えず、厨碑の起きて井を汲むを聞きて始めて天明を
知る。冬中此の如き者しばしばなり。其の刻苦や、知るべきなり。平居書を読むや、随って読み随って抄す(抜書きした)。手抄する所は数十帙、大日本史・日
本外史等、皆親しく謄写するところなり。
明治29年7月7日、病に罹り没す、享年八十一。加納町欣浄寺の先塋に葬る。
配(妻)は三宅氏、四男四女を挙ぐ。長は太郎吉といひ家を承く。次は歌之助と日ひ別に家を為す。次は福三郎と曰ひ兄を輔けて家政を整理す。次は巴と曰ひ
また別居す。長女は羽島郡正木村野口嘉左衛門に適(ゆ)き、二女は夭(折)す。三女は大垣町小山常次郎に適く、四女は加茂郡今村村上青尚に適く。
翁は学、和漢を該(か)ね、又刑律を研覃(ふかく研究)し、余暇には詩賦を好み、最も古詩に長ず。晩年貝葉(貝多羅葉の略、経文)を播き、頗る得る所有
るが如し。又好んで山水の遊をなし、花晨月夕ごとに門人四五輩を擁して逍遥行遊、以て楽しみとなす。著す所、山陽詩抄集解、樅台詩抄有り。今茲(ことし)
門人丸尾錦村、翁の行歴を持ち、来りて余に碑文を属す。余曰く、余の不文は以て翁を不朽ならしむるに足らずと、之を辞すること一再なり。錦村曰く、君と翁
とは同門たり、また翁の遺嘱なり、敢へて請ふと。余また辞すること能はず、乃ち之が銘を為(つく)る。
貌は朴、言は訥、爛漫、天真、雅量、物を容る、淳風たれか倫(たぐひ)せん。君子人か、君子人なり。
明治31年5月 大垣の野村煥識す 恵那の丹羽金吾書す
(岐阜市加納西丸町
加納
小学校内)
『碑文をたずねて 一 岐阜県下碑文漢文の部』(1994岐阜県歴史資料館刊行)に
拠った。
三宅樅臺
名は守観、字は海岳、復輔と称し、後左平と改む。樅臺はその号、本姓は小坂氏、武儀郡上有知村小坂宗十郎(名は實信、北嵩と号す。嘉永五年没
す。年七十七。詩文集若干あり。)の第三子なり。文化十三年を以て生る。文政二年六月、年三十九、三宅樅園(佐兵衛守常)の家に入螟し、因て其氏を冒す。
三宅氏は加納の旧族たり。九世の祖、孫六郎家重、厚見郡沓井に住す。慶長の初め徳川家康、家重の言を用ひ、城を沓井に築き加納と改称す。三宅氏の居適々そ
の地に当る。乃ち市街に移住す。由て地子及び助役を免れ、子孫蝉聯その地を占むと云ふ。養父樅園その父牛洞並に文学あり。
樅臺幼にして学を好み、村瀬藤城に従つて業を受く。天保十年東遊し、幕府の儒員佐藤一齋に贄を執り、後また津藩の文学齋藤拙堂及び宮原節庵に師事し、郷
に帰りて私塾春曦塾を開き徒に授く。安政二年三宅氏を嗣ぐや、授業生徒を携へ来りて教授す。明治の初め加納藩に出仕し、文学教授となる。藩主永井侯屡々召
して国事を諮詢す。六年十月遷喬義校教授となる。七年職を辞す。八年官に請うて樅臺私塾を開き、帷を下して教授す。遠近子弟来り学ぶ者多し。其の人を誨ふ
る諄々倦まず、其の講説訓詁に泥まず、大義を指授し、人をして思うて自得せしむ。
樅臺人と爲り朴実寡言、澹然世に求むる所なし。飲食衣服の如き、家人の供する所に一任す。或は珍膳案に盈つるも、食ふ所一菜一羹に過ぎず。家居無事一室
に兀座し、潜心耽読、客の傍に在るあるも曾て之を知らず。久しうして始めて之を覚り、驚起礼を作し、談笑歓を尽す。祁寒暑雨と雖も、終日徹宵研精休まず。
甞て冬夜書を読む。霜気膚に透り、擁する所の手爐火燼するも之を覚らず。厨碑起て井を汲むを聞き、始めて天明を知る。此の如きもの度々なり。其刻苦知るべ
し。平居書を読むや、読むに随つて抄す。手抄する所数十帙、大日本史、日本外史等皆親ら謄写する所たり。明治二十九年七月七日歿す。享年八十一。加納欣淨
寺に葬る。配三宅氏、四男四女を挙ぐ。長子太郎吉、家を継ぐ。
樅臺学経史に淵源し、博く百家に渉り、又刑律を研覈し、余暇詩賦を好み、最も古詩に長ず。共の詩胸臆を直抒し虚飾を事とせず、咀嚼味あり、篇々皆樅臺其
の人の如し。晩年貝葉を繙き、頗る得る所あり。又好んで山水の遊をなし、花晨月夕、門人四五輩を携へ、徜徉行遊以て楽となす。著す所山陽詩抄集解・樅臺詩
鈔あり。丸尾錦村、森桂園等其の門に出づ。
伊藤信著『濃飛文教史』(1936博文堂書店[岐阜市]刊行) 342-344p
より。