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徳富蘇峰(1863 文久3年1月25日〜1957 昭和32年11月2日)
徳富蘇峰 掛軸

(2006年3月購入)
 
残生随白鴎 蘇 叟九十二(昭和29年)

杜甫
『去 蜀』 より
五載客蜀郡、一年居梓州。如何関塞阻、転作瀟湘
萬事已黄髪、残生随白鴎。安危大臣在、不必涙長流。


蜀を去る
五 載(5年間)蜀郡に客 たり、 一年梓州に居 る
如何でか関塞(関所)の阻みて、転(
う たた) 瀟湘の遊を作 さん
万事すでに黄髪(白髪)、残生は白鴎に
随がはん
安危(国家の重大事)は大臣に在り、必ずしも
長しへに流さず(私なんぞが流すこともない)。


梁川星巌全集刊行の際に、編纂主任伊藤信が序文を仰いだ人物は徳富蘇峰でありました。全集第一巻巻頭に曰く。
星巌先生ハ我邦近世ノ一大詩宗也。東西ヲ陶冶シ。古今ヲ折衷シ、獨自ノ詩境 ヲ開拓ス。
其詩温雅明麗、口ヲ衝テ出テタルモノニ似タリ。然レドモ其ノ實ハ千推万敲、 一トシテ先生心血ノ凝晶タラザルハナシ。而シテ寄託清遠、眞 ニ鏡花水月ノ妙域ニ臻(いた)ル。而シテ其ノ紙背ニハ憂時慨 世ノ氣魄 森然トシテ人ニ逼ルモノアリ。
故ニ、一面ヨリ觀レバ詩ハ先生ノ保護色ニシテ、自ラ韜晦スルノ假裝ニ過ギ ズ。先生ノ晩季時局危急ニ際シ忠憤ノ情自カラ禁ズル克ハズ、 籥天集ノ一巻出ヅ。此ニ於テ露堂々トシテ先生ノ全面目始メテ 世ニ昭カニ、天下ヲ擧ゲテ先生ガ憂國ノ志士ニシテ皇政維新ノ大先達タルヲ知ルコトヲ得タリ。
友人伊藤竹東君ハ先生ト同郷ノ士ニシテ大正ノ末、先生ノ傳記ヲ編シ併セテ其 ノ夫人紅蘭女史ニ及ブ。亦復更ニ先生全詩ノ正解ヲ作リ百難ヲ 排シテ刊行ノ緒ニ就カントスルニ際シ、一言ヲ予ニ徴ス。予既 ニ君ノ前著作ニ就テ蕪辞ヲ陳セリ。加フルニ老且病理正ニ辭スベキナリ。然シ先生ハ予ガ平昔最モ崇仰スル先進ナリ。而して竹東君ノ篤學ニシテ其ノ郷賢ニ忠ナル、亦欽美措ク能ハズ仍ツテ左ノ二首ヲ録シテ以テ題詩ニ代フ

 風月流連韻最奇。仙風遺骨美霜髭。籥天晩節開新境。詞客生涯也是詩。

 機外有機霜白知。尊皇愛國是男兒。滿腔熱血十千斛。吐出驚 天動地詩。

昭和丙申首月於晩晴草堂
    火國後學菅正敬 頽齢九十又四

丙申は昭和31年(1956)、翁の94歳、易簀の前年に当ります。なかに先生ノ傳記とあるのは、伊藤氏が著した740頁余にわたる畢生の大作『梁川星巖翁 : 附紅蘭女史』(梁川星巌翁遺徳顯彰會, 1925.5)のことであります。嘗てその序文には曰く。
 維新回天の偉業は、一人一個の力にて、成就す可きものではなかつた。其の 賛翼の志士中には、有名氏もあれば、無名氏もある。然も其の天上の星の如く、海濱の礫の如く、多くの志士中に於て、最も特色ある一人を求めば、梁川星巖翁 の如き、則ち其人と云はねばならぬ。唯一人と云ふのでもなく、第一人と云ふのでもない。然も其の重なる一人に相違ない。
 凡そ人物として翁の如く、複雑なる機關の持主は多くあるまい。世に二重人 格と云ふ言葉があるが、翁の如きは二重は愚ろか、三重とも、四重とも云ひ得可き人であつた。翁に比すれば、頼山陽の如きは、寧ろ単純にして、與みし易き人 物と云はねばならぬ。
 翁の一生は、徳川氏極盛の項上から、其の傾覆の下り坂に及んだ。翁は其の 少壮時代には、江戸の山本北山の塾に在り、市川寛齋の徒たる詩佛、五山等と周旋し、梁詩禪の名は、儕輩の間に高かつた。晩年京都に住し、勤王諸志士の長老 となり、殆んど、安政の大獄に及ばんとして、其の一刹那に逝いた。其の中間の東依北托の踏跡は、今茲に説く迄もなし。翁は詩人たり、雅客たり、高士たり、 逸民たり、道學者たり、佛老者たり、志士たり、慷慨家たり、而して策士たり。或は煽動家とも云ひ得べく、或は陰謀家とも云ひ得べし。要するに彼は神龍の容 易に狎る可からざるが如く、唯だ時に其の片鱗剰甲を現ずるのみにして、何人も其の全き彼を摸捉し得る者なかつた。乃ち一言にして評すれば、翁は深人であっ た。深人なるが故に、其の胸中には、測り知る可からざる深機を藏した。然るが故に、世皆な真面目を解するに苦しんだ。
 大正八年八月伊藤君竹東、大垣の金森君毅庵を介し、其の著梁川星巖翁傳の 序文を徴した。予は干平生星巌翁に尤も推服する者、されば未だ君の著作の全文を見ざるも、直ちに之を快諾した。大正十三年の夏、竹東君予を國民新聞杜に訪 ひ、其の著書の漸く印刷に附せんとするを告げ、予に先約を果さんことを需めた。予欣然之に應じて曰く、印刷既に半ば成るの頃、必らず之を果さんと。而して 昨臘君一書を飛ばして曰く、印刷既に半を過ぐ、請ふ數言を愛む勿れと。予此に於て聊か平昔翁に就て見る所の一斑を記して、君の誨を乞ふこととした。若し夫 れ君は翁と同郷の産にして、然も其の學問の淵源亦た翁に繋がるものがありと云ふ。而して其の多年の熟心なる研究の餘、此著を做す。其の全き翁の面目を描き 出したるや、知る可きのみ。縦令萬一然らずと云ふ者あるも、翁の全き面目を知らんと欲せば、必らず君の此著に據らねばならぬこと、是亦た決して疑を
容れず。星巖翁をして知るあらしめば、著者饒舌、乃翁の秘機を勘破し了ると 一喝するやも、未だ知る可らずであらう。

大正十四年一月初二夕 湘南観瀾亭に於て 蘇峰學人

 私が梁川星巌全集を手にとって最初に何に感銘を受けたかといへば、五巻に亙る浩瀚な分量であるとともに、実は最終巻のなかに掲げられた人々の写真、とりわけ全巻完結を見ずに道山へ帰せられた蘇峰翁の屈託のない笑顔と、同じく宿痾に倒れた伊藤信先生の謹厳痩躯の姿でありました。後を受けて全集を完結に導いた富永蝶如氏もまことに凛々しい面構へであります。日本人から斯様な顔が喪はれて久しいのは、やはり教養、修養として漢籍の素養が喪はれたからではなかったかと、常々さう思ふのでありますが、蘇峰翁は漢詩人ではありませんし若い日にはキリスト教に帰依した時代もあったひとです。しかし内村鑑三や岡倉天心、南方熊楠や果ては頭山満に至るまで、「明治の精神」が産んだ計測不能な大人物=所謂「豪傑」の、蘇峰翁もまた一人、そして最後の生き残りであったと、この笑顔と墨蹟は物語ってゐるのではないでせうか。
 加ふるにこの最晩年の書に引かれてゐる杜甫の詩句「白鴎」とは、私にとって星巌、藤城、細香ら美濃の漢詩人達が一堂に会して鴎盟を訂した「白鴎社」に通ずる謂をもって、また格別の感慨を想起させます。爾が残生の詩魂もあらばまた故郷の漢詩文伝承に就かれるがよしと、御大自らが志を鼓吹して送り出して下さるやうな、気迫のこもった一幅に感じ入るばかりです。
 
左より、徳富蘇峰、伊藤信(号:竹東)、富永蝶如(『梁川星巌全集第五巻』昭和33年10月10日刊行より)


   

   

 晩年の蘇峰翁について、風貌を伝へる一佳話 を紹介します。

第二九話 活きた言葉      『先生になって良かった』 堀内保丸氏 著, 2003, 103-105pより。

 かつての赴任校に、戦前の言論界で高名の徳富蘇峰翁が見えて、お話をされることになりました。終戦から数年後のことです。当時、翁は九三歳と伝えられて いました。戦前の文筆活動が右に寄った人物であるというので、自称進歩派の若い教月数名が抗議めいた言動を示しはじめていました。
 そのため、一部の心ある教師は多少のいざこざが校門で起こらねばよいがと取り越し苦労をしていました。生徒のほうはどうかということでしたが、私の知る 限り客人に対してあえて無礼を働く生徒がいるとも思われませんでした。しかし、どういう突発事故が起こらないとも限りません。私は和戦両様の構えをとりま した。
 さて、当日。翁は、豊かな白髪が垂れる体を仙者の持つようななつめ色の杖に託して、しずしずと講堂に入られました。その姿は自ら満堂を圧して、日ごろ騒 がしい千人あまりの生徒たちも水を打ったように粛然としていました。
 お話の内容はどのようなものであったでしょうか。それはまた、世にも簡潔なものであったのです。
「朝夕に諸君が通うこの道。四条畷への街道は、その昔、楠公(楠木正成)と別れたその子、正行が、泣く泣く母の待つ河内へ帰った道。諸君もおそらくその年 齢。私はおっつけ祖国を去ることと思う。日本をよろしく頼みます」
 普通の人なら一分で言ってしまうこの言葉を、翁は一語一語に全身のカを込めて話されたのです。已に足元も不自由で、長い話も侍医に禁じられている百歳近 いひとりの先輩がここまで見えたのだと生徒たちは思ったのか、講堂にはただならぬ熱気がこもっていました。
 やがてその後、教室で私が感想を開きますと、生徒たちは一様に感動した様子で言いました。
「一言ひとことが魂に突き刺さるような話ぶりですね」   「うならされました」   「僕もあれくらいの年寄りになりたいと思いました」
 事実、私もこのときばかりは年寄りのすごさを見せつけられ、早くあれほどの年齢を重ねてみたいとまで思わされました。
 そして、人間の言葉にはひとつのいわば滲透圧といったものがあって、同じ言葉でもその背後に練り上げられた人格や学識、さらには厳しい修業やたゆまない 修養によるカが秘められるとき、聞く人の身と心を貫くことを目の当たりにしました。また、観念的な反抗は紙鉄砲の域を出ないことも実証された思いです。
 それから十数年というもの、私はこうした言葉に接することはなかったのですが、はからずも妻が師事していた中村天風先生のお話のなかで、蘇峰翁と同じよ うな強い言葉に接することができました。
 人も知るように、昭和天皇にご進講もされた天風先生は心身統一道の創始者として、積極と調和の生活態度を唱えられた方ですが、私にとってそれが最後に なったお話を承ったとき、奇しくもまた九十二歳であられました。
 ときに荘重に、また、ときに軽妙に、人生と宇宙の背理を説き去り説き来たりの最後に、「なんのかのと理屈はあっても、人生の目的はね、……それは ねぇ……いいですか」と言って大きく息を入れてから、固唾を呑んで粛然と次の句を待つ老若男女に向かって、威儀を正し気味に、その不撓不屈の全生涯をこの 一瞬に籠めて、『優れた人間になる』ってことです」と結ばれたのです。とりわけ、「なる」という声に秘められた迫力の強さと深さに触れ得た私も、一瞬の身 震いで応えているのでした。
 そして、親や先生から何百回となく開かされた筈のこの言葉の、その底知れぬ珠さに見覚めされたことを改めて深く感謝するのでした。
  (続きは買って読んで下さい。)


 また若き日に「諸君がもっとも大敵なるべきものは、諸君がつねに敬愛する所のかの老人の輩なり」(笑)と語り、
己の命運を賭して平民主義ジャーナリズムの拠点「民友社」を興した蘇峰青年も、実に凛々しい顔立ちですね(明治19年23歳)。



『徳 富蘇峰――日本ナショナリズムの軌跡』2003年(米原謙 中公新書1711)より。著者語るらく、
「欧米が日本の国民的自尊心を傷つけることには敏感でも、アジア諸国の「傷つけられた自尊心」には無関心だった」と、戦前の蘇峰にみられた唯一の弱点につ いても記しつつ、全体にはその近代日本ナショナリズムと宿命をひとつにした生涯を、巨人の歴史として敬意をもって描いてあり、たいへん勉強になる伝記でし た。





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