伊藤冠峰
(いとう かんぽう)
(1717 享保2年 〜 1787 天明7年)詩
名は一元、字は吉甫、冠峰と號す、通稱も亦一元、伊勢菰野の人。 冠峰文集、緑竹園詩集あり(先 哲叢談 link:Taiju's Notebook)。号の冠峰は三重県鎌ヶ岳(link: ノスタルジア鈴鹿の山)。

(りょくちくえんししゅう)
冠峰先生顕彰研究会(岐阜県笠松町) 1990.11復刻
原本 1782年(天明2年刊)11月 五巻三冊 蔵版
版元 尾張 松屋善兵衛 / 皇都 山田屋卯兵衛
後記
もうどの位になるのか。確か三 年前の九月の事だったか。宮崎氏から分厚い郵便物が届いた。これが何と私と冠峰詩との最初の出合いであった。伊藤冠峰の伝記を作るのでそれに載せる詩の訓 釈を見てほしいとのこと。事前に電話でそんな依頼があったりはしたが、当時私は他の原稿書きに追われており、先人の詩の解釈などは大変面倒な仕事で、浅学 の及ぶ所ではなく、御地の然るべき方を探してお願いしてほしいと断わっていた所だったので聊か吃驚した。同封された詩は十八首、それに氏の訓釈が添えられ ていて見てくれとのこと。見るともなく見ると氏の苦心の跡がありありと伺える。明らかな誤釈も目に付いた。こんな事で氏の熱意に動かされ、せめても誤りの 部分だけでも直してあげなければと、その日から筆を執り始めた次第である。
正直言ってそれまで私は伊藤冠
峰の存在を知らなかった。ましてその詩を目にした事もなかった。送られて来た詩稿から冠峰を知り、その概ねの経歴と詩風を心得、その詩集に「緑竹園詩集」
なるものが存在する事も分った。それに筆を進めて見て行くうちに冠峰の
人となりとその詩風に興味を覚え始めた。
話は変わるが私は長年名古屋に 居住した。一人暮しの身となって食事に困りここ瀬戸の地に移った。入居したのは当時出来たばかりの有料老人ホームのミソノピア。ここに入ってからは三食昼 寝つき、食事や家事の心配は全く無くなった。それを幸いに老後の仕事の一つとして、土地の為に自分の才能を生かしてみよう、先ずは漢詩文を中心に瀬戸の文 学史でも書いてみようかと考えた。入居後色々と心して資料となる物を探して集めようとしたが思わしくは見当らない。やはり瀬戸は瀬戸物のまち、現今はいざ 知らず、過去の当地方は寒村で文学らしい物が残っていないと言うか無い。高名な学者や文人詩人は見当らないし、古い寺院なども有るには有るが学僧や詩僧な どは出ていない様で、がっかりした。
そんな時に冠峰の詩が舞い込ん できた。この土地の為にするものが無ければ生まれ故郷の為にするのも悪くはあるまいと思い付いた。今の岐阜市が私の生まれ故郷、二十歳過ぎまで岐阜県の恩 を受けた。小学校も中学校も師範学校もみな岐阜の地で過した。笠松は岐阜市ではないが隣接の地、ここで笠松の地に関わりを持つのも何かの縁と考える様に なった。
私は長年漢詩を勉強して来た。 漢詩文には中学の頃から興味を持ち、大学も漢文学を専攻とし、漢詩特に唐詩に興味を引かれ卒業後もその調べを続けて来た。作詩も多少はする。今もまだ人様 の詩を添削させられたり、漢詩の講座に出されたりもしている。そして最近強く感ずるのは従来の漢詩や漢文がだんだんと訓めなくなるのではないかという事で ある。漢詩や漢文を訓点を付けていわゆる訓読出来る人がやがて居なくなるのではないかと心配される。かつて日本文学の一翼を担って来た漢詩文が訓めなくな る。訓点の施された有名な古典はまだしも、直筆の漢詩文、軸物、額物また詩文集、碑文掛など手が付けられなくなるのではないのか。今そんなものを出来るだ け訓める様にしておかないと貴重な過去の文化財も無に等しくなる。ここで漢文の訓める者が訓める様にしておかなければなるまい。それが訓める者、特に私程 の年頃でかつて漢文を学んだ者に課せられた義務なのではないかという聊か思い上がりの様な気持ちに駆られた。
瀬戸にはそんな対象となる漢詩 人は見当らない。笠松には伊藤冠峰がいる。今その人の詩の訓みを自分は問われている。却って願っても無い事かも知れぬ。では一肌脱いでみるかと意気込んで みた。
さて、伊藤冠峰の詩集に「線竹 園詩集」のあることが知れた。一部の詩を解読するには全部の詩を読んでみる必要がある。伊藤家にその写本が所蔵されていることも知れた。そこで宮崎氏に写 本のコピーを依頼した。氏から写本三冊のコピーが送られて来た。早速訓み始めてみたのである。
この写本はどんなにして作られ たものか。先代の頃に、書写専門の書生があったものか、人に依頼して作られたものらしい。コピー機のない当時のこと、書写生は幾日か泊まりがけで日々写し に通ったことだろう。筆記具は毛筆である。写しに行ったのは内閣文庫(現在は東京都千代田区北の丸公園3-2)だという。今から思えば 大変なこと、その費用や宿泊費等かなりなものであったろう。
写本によって訓み姶めてみると 訓み辛い所が出て来る。何しろ人のする事、それに本人が本当に漢文が理解出来ていて写したものかどうか、ただ文字を辿って写した箇所も少なくはなかろう し、疲れの時もあったであろう。明らかに誤写が有ったり脱字が有ったりする。訓点の付け方にも疑問な点が出て来る。本物の版本の方はどうなっているのか、 版本で確かめる必要を痛感しだした。
原本の版本は宮崎氏の言によれば 内閣文庫の他に京都大学の図書館にあるとのこと。写本には序文の部分が無かったが、その部分のコピーが既に大学から取り寄せられていた。然し本文全部のコ ピーは無い。全部のコピーも依頼された様だが、本全部のコピーは本に熱が加わって本を損傷する恐れがあるとかで作られていなかった。出来るのは写真撮影に よるもの。かなりの日時を経てその写真撮影なるものが届けられた。見ると原寸より小さく写され、しかも本文を囲む上の枠巾と下の枠巾とでは三ミリメートル 程上が広く下が狭い。それに版本自体がかなり破損しているとみえて、中巻の表紙も無く、虫食いの箇所があちこちに有り、また染みや汚れも点在し、蔵書印な ども押されたり墨で塗られたりしていて、見苦しさが目立った。此れを目にして此れを訓みこなすには先ず版本を整理してみる必要があると感じその複製を思い 立った。それに原本が全国に二部しかない。一般には手が届かず、冠峰を知る上でも研究者の手に入り易くしてみなければなるまいと複製を試みることとした。
以後早速その複製の作業に掛 かったわけだがこれがなかなか大仕事だった。日々幾十分幾時間、どれだけの日月をかけたことか。ホーム暮しの生活だからこそ出来たこと、欲得勘定では到底 出来ない根気仕事だった。ここに細かには説明し難い苦労をした。先ず原寸大に拡大する。本文を囲む枠の上巾と下巾の違いを切り開いたり、上部の南外側を一 ミリメートル程塗り消しその内側を一ミリメートル程塗り広げ、下部はその逆をして上下の巾を同じにする。表頁と裏頁の枠の上下や左右の長さの違いも調整す る。文字や空間の汚れも丁寧に塗り消して行かねばならない。これも大仕事。塗り消しはポスターカラーのホワイトを面相筆を使ってするのだが、ポスターカ ラーは水性なのでコピーの黒が油を含んでいて塗っても弾かれてなかなかうまく一度には塗り消せない。二、三度も塗り直す。空間の汚れや文字の一点一画も汚 れの部分を消さねばならない。全くの小細工、目や肩や腰に疲れを覚える。
版本では返り点や送り仮名は一 応は施されてはいるが完全ではない。一、二点でも一が抜けていたり二が抜けていたり。送り仮名も付けてあったり付け足らなかったり、中には仮名遣いのミス もある。
これを修正する。詩題には訓点 が施されていなかったがすべて返り点のみを補った。返り点の抜けや現代用法との違いの部分も修正し、送り仮名についてはそのままとし、誤りのみを正した。 句点(、)は初めの一部には付されていたがすべてに付した。用字も色々な字体が使用されたりしているが誤字は正した。字やそれに枠や行間の線も掠(かす)れていたり切れていたりするの も黒のボールペンで補った。
こんな風でこの複製本は原本を 解いてそのままコピーして仕上げたものではなく、全行全字全線空間まで殆ど手を加えない箇所は無いと言っても過言ではないほどこの三年間日々苦労した。い わば私の老いの精魂を傾け尽した生涯の芸術作品とでも言い得よう。自分ながらよくも仕上げたものだと感心する。とにかく目下の所二部だけしか見当らない版 本をどうにか複製出来てより多くの方々のお目に掛けられる様になったのは本当に嬉しい。
詩の内容的な読解や分析は他日 の事とするが、冠峰の著述が他にも有ったと言われても、それらが見当らない今日に為っては冠峰を知る上で、この詩集は貴重なものであるのは間違いない。世 の識者の研究の資ともなり多少なりとも学術的な貢献が出来れば苦労のし甲斐があったと自ら慰め喜ばざるを得ない。
付録の遺墨について付言する。
冠峰の遺墨も多くは見られな い。ここに収めたものが全部であるかと思われる。その殆どが伊藤家に保存されている。ご多分に洩れず当時の文人の筆跡と同様冠峰のも達筆で多少の書き癖を 持つ。読むとなるとなかなか読み辛い。ここに掲げた遺墨もやはり読み難い文字が出て来るが書翰を除いて他にはすべて現代用字に置き替え返り点を施してみ た。勿論読み違えもあろう。何れ識者の訂正を得る事が出来れば望外の幸いである。読み難い文字については知友にも判断して貰ったりした。何かと教示を得た 諸賢に感謝する。
さて、冠峰の事績を今にして顕 彰しておきたいとの念願の一つがこの詩集の複製であるが、他に詩碑を作っておこう、それに詩吟をされる方々に吟じて貰う為に詩集から選び出した詩吟用の教 本というか吟本というか、そんなものもこの際に作っておこうと考えた。
当初は版本の複製を完成させて からと考えていたが、いざ版本の複製に取り掛かってみると上記の様で一年や二年では完成出来そうもない。そこで詩碑の方をその間に先に作っておく事とし た。
初めは伊藤家の邸内に建てては と思ったが都合で現在の場所にすることとなった。どんな詩をどんな風に彫るのか、スタイルはどんなにするのか、色々と考案し相談し結局は現在のものの様に なった。コピー技術の進んだ今日とはいえ、写本の文字を拡大し拡大し、切り張りして文字の位置も多少変えて補修し、原寸大の碑表の図案を作るのはこれも並 大抵ではなかった。碑陰も文字と字句の排列に随分と苦心した。訓読文を刻んだのは宮崎氏の希望による。半年程苦労したが何とか立派に実現出来て満足の他な い。これも全く宮崎氏のご協力あってのこと、適切な事務処理、ご助言に心から感謝する。
除幕したのが昨年の十一月五 日、日曜日、快晴だった。当日は町長さん以下多数の町当局の方々、伊藤家の方々、当地の詩吟愛好の方々、それに私が講師をしている名古屋の毎日文化セン ターの漢詩教室の方々、工事関係、報道関係、当日司会の方々などおよそ百人近い人人のご臨席を得た事は私の生涯での強い感激である。緑竹園に因んだ詩碑を 囲む緑竹、秋晴の空に光りながら落葉が一枚二枚と舞う。その中に流れた吟士の方々の美声も素晴しかった。
式後伊藤家のご好意によって料 亭吹原で関係者に慰労の宴を賜わったのは有り難い事で感謝の他ない。またこの日はミソノピアで平素世話になっている石原弘氏の車で瀬戸から往復し、かつ写 真撮影など氏に何かと身辺の世話になったのも有り難い事であった。碑には三百万程の費用と工事には数箇月を要した。その工事を担当された方々にも心から感 謝する。
八頁に掲げた冠峰の自画像の色 紙は当日の記念として出席の方々に配られたものだが六頁のものをアレンジしたものである。これも宮崎氏の尽力による。現代のコピー技術の有り難さを知る。
吟本の作製も何れ後日に実行し たい。目下は本文の訓み返し中である。だが吟本として現代感覚で一般的に吟じ得られるものを詩集から選ぶとなるとこれも簡単ではなさそうである。何れ詩集 についての見解もまとめてみたいとは思っているが、冠峰の思想や風格を表現する十分なものが出来るかどうか。吟者の方々の意見も参考にしてまとめて行かな くてはなるまい。
とにかく、冠峰の事績を現代的 な立場から出来るだけ顕彰しておきたい。冠峰先生顕彰研究会も作られている。今のこれらの仕事を切っ掛けにして更にこの会の活動が発展すれば幸いである。 この冊子は二百五十部出版、印刷製本費に二百二十万円程を要した。購読して頂けた収入のすべては会の今後の活動の基金に当てて貰いたいと願っている。有識 の方々のご理解とご協力を賜わりたい。
私は所詮他郷人である。これら の完成を侯って笠松の地とは惜別せざるを得まい。事業の一層の発展を願って息まないものである。
末筆ながらここに詩集の出版、 詩碑の建設に際し何かとお力添えを願った方々のお名前を記して重ねて感謝し敬意を表する。
先ず第一に宮崎惇氏。今度の仕 事が出来たのも氏の存在があったからこそである。宮崎氏が当町の中央公民館の館長の職にあったこと、それに宮崎氏と私との個人的な縁があったのによる。こ こに個人的な繋がりを書くのは控えるが、書けば思い出は長い。ご両親も存じ上げており、ご令母すぎ先生にはお世話になったりした。まさに崢エ五十年前のこ とである。こんな事で、冠峰詩の訓釈を依頼されても無下には断わり切れず、そのうちにミイラ取りがミイラになったのか、日々を冠峰詩の調べに過す羽目とな り、さては詩碑を建てたり詩集を複製したりの始末、縁は異なものである。
こんな経緯で氏の手になったの が41頁 に紹介した著書『郷土の先哲・漢詩人 伊藤冠峰』である。冠峰を知る上で無くてはならぬ貴重なもの。筆者も多くの便を得ている。購読をお勧めする。
次いでは伊藤玄適氏。勿論当初 は一面識も無かったが宮崎氏の紹介による。度々お家にお邪魔したにも拘らず、多忙のご家業の中を心よくお相手下さり、資料の提供等積極的にご協力を願えた 事は全く有り難い事であった。ご令閏にもお世話になり厚くお礼を申す次第である。因みに氏は冠峰より八代日の後裔にあられ、玄適(玄適の玄は冠峰の義兄 だった玄沢の名によろう。)の名は二代、四代目も同様で、三代、五代は冠峰の名だった一元を名乗られている。氏は薬剤士として藤田屋薬局(下本町人) を 経営されている。
冠峰の直筆の詩文の訓み辛さで 私の浅字を補って頂いた知友にも改めて、感謝の意を表する。みな漢詩同好の吟社の方々である。
ミソノピアでは朝な夕なコピー 機で随分と便宜を受けた。事務所の皆さんにも心から感謝する。特に、松井国雄氏には冠峰の出生地である三重県の菰野町までお連れ願い、町の郷土資料館、そ れに冠峰の号の由来する冠ケ岳(鎌ケ岳1161メートル)に案内して頂いた。冠ケ岳では老骨の私は頂上に立つ事は出来なかったが、その 近くまで登り、帰り熊笹数枚を持ち帰ったのは今も印象が強烈である。
最後に毎度の事ながら、丸善の 自費出版センターの方々には何かと一方ならぬお世話になった。香村裕子女史、久野暁氏、佐藤隆氏、志村善三郎氏に敬意を表する。
序ながら、私は一九一六年十一 月八日、岐阜市加納東丸町2-56に生まれた。先祖の出は同市雄総、父達美、母がく。岐阜男子師範学校の附属小学校、岐阜 第二中学校、岐阜師範の二部を卒業し、一時、女子師範学校の代用附属小学校だった加納尋常高等小学校で教鞭を執った。今も加納の地は懐しい。その後、広島 高等師範学校(教育科)を経て広島文理科大学の漢文学科に学んだ。卒業後名古屋に出、中村区五反城町1-18、雲夢庵に居住、一九八三年二月二十三日、悼亡、倭文捐庵、一九八六年十一月二十六日、 ここミソノピアに移る。居室を方外房と名付けている。
いささか漢詩文を勉強、これま で多少の出版物があるが、丸善で自費出版したのは ○唐詩絶句の声韻と修辞 ○吟草雲夢(沖縄吟草、中国吟草、雲夢吟草、倭文悼歌他) ○現代日本漢詩人 集新騒 ○老いのことば、があり、この度この本が出来て五冊目、随分お世話になったが、それぞれ立派に出版出来、それなりの成果と反響を得た事は本当に幸 福至極なことである。
今後はここ瀬戸市の文学的なも のをまとめたいと念願し今も努力中だがさてどんな事になるのか。目途は来年の十一月八日、私の七十五歳の誕生日である。ご期待願えれば幸甚。
今は漢詩作りは余りしていない が、作詩の吟社に出たり、文化センターで漢詩の講師をしたり、詩吟の方々のグループともお付き合いしたり、日夕作詩の添削に追われたりしている。拙書『老 いのことば』の「芸は老いを助ける」を地で行くような有様。自分の才能を何とか人様に役立てられる間は頑張ってみたいものである。
それに今一つ画がある。私は趣味 で京都四条派の流れを汲まれた名古屋熱田の日本画家故石川英鳳先生に亡くなられるまで二十年間運筆の指導を受けた。今も時折、色紙がきしたり、草花などの スケッチをしたりしている。結構色紙を所望してくれる方や、中には教えてほしいという方もおられて、そのお相手をしたり、楽しみながら老いの遊びに日々の 生活に変化を添えられているのも有り難い事。
冠峰先生は呼びの七十一歳で亡 くなった。私は今呼びの七十五歳、学は及ばないが先生より長生き出来たのは自慢にならぬ自慢とでも言おうか。感慨深いものがある。
老いの繰り言か、くだくだと思 うがままに事の序に書き綴ってみた。まさに老いの遊び、お笑い下さい。
一九九〇年十一月八日 七十 四歳の誕辰を記念して
ミソノピア 方外房 にて
九功 村瀬一郎
記す
