『私の國語教室』における福田恒存氏の主張は、簡単に要約すれば、(まず文学に係る 人間、及び国語教師を対象にしてといふことですが、)
古典の言語感覚と同じ世界に浸ることの大切さについて、歴史の連続性といふ観点から日本人として考 へなさい。
といふことに尽きるかと思ひます。
とりわけ「歴史的仮名遣ひ」が、「戦犯」でも「封建時代の産物」でも何でもなく、敵視すること自体見当違ひのものであるのに、「表音主義」といふ 一見尤もらしく「民主主義的」に見せかけた動機を掲げた、戦後のどさくさ紛れに乗じた一勢力によって、「大日本帝國憲法」と一緒くたに切り捨てられてし まった「スケープゴート」の最たるものであると、歴史的な経緯を説明し、その正当については、感情論でなく周到な理論的裏付をもって説いてゐて、これを読 んだ時には著者の人柄にも合せて敬服しました。
ただ、漢音の仮名遣ひや促音便の小文字表記に付いての「歴史的仮名遣ひ」には、私も戸惑はざるを得ないのが実情です。とくにパソコン生活の上に
おいて、画数の多い漢字を書く必要が無くなったのはいいとして※、
「萬葉集」と変換キーで呼び出すためにはやはり「まんようしゅう」でよろしいのではないでせう
か。
むづかしく思はれてゐる「歴史的仮名遣ひ」ですが、そもそも昔の文人も仮名遣ひを使ひこなしてゐるかといふとさうではなく、好い加減であること が、例へば手紙など読んでゐると良くわかります。です が、だからといってそれが歴史的仮名遣ひが非である証拠なのかといへば、私にはやっぱりさうは思はれない。このサイト上にも変換し忘れた仮名遣ひが散見さ れ るでせうが、そんなことは一向構はない。むしろ間違って書いても(表音の方向にながれるだけだから)問題にされない「鷹揚」なところが、却ってわたしには 頼もしくうつります。ただ官公庁がこれを本当に復活採用することになったら、どうなるでせうか。
私には正しい仮名遣ひが復活しないのは、「進歩的」インチキ国語学者とジャーナリズムが結託してゐるといふ構図が原因であるとは、どうも思はれな い。文章校正に要する労力を考へると、この正しいかな遣ひを厳密に適用しようとすれば、役所や教育機関のことなかれ官僚主義と、それを目の仇にするジャー ナリズムの双方を、いたずらに脅かし刺激する恐れがあるのだと思ひます。あたらしく歴史的仮名遣ひがおこなはれる為には、字音仮名遣ひの厄介から仮名遣ひ を開放しなければならないことはいふまでもありません。しかしそのややこしい選別が、一体この「民主的」なお国で円滑におこなはれるものでせうか。やれ大 和言葉だけ残すのは国粋主義だとか、訳の判らぬことを言ひ出す輩が百出するに決まってゐます。役所の公文書も現在は正仮名が許可されてゐる筈なのですが、 そこがクリアーされない限り、結局私的な文学的述志の表明(あるひはおちゃらけたパロディー)にとどまるのも仕方ありません。
そしてデジタル化してゆく趨勢のなかでは、かういふ「鷹揚」な仮名遣ひの考へ方といふのは、多樣性として許される前に粗雑にシステム環境が進化し て行く過程で一旦まず、一掃されてしまふものなのかな(日本の自然と同じく)、とも危惧してゐます。事実、現在キーボードをローマ字入力でなく、かな入力 で文章を作成してゐるひとが何割をしめてゐるのでせうか。縦書きが横書きになり、ローマ字で文章を入力するといふ習慣が、日本語の発想に影響を与へること は必至であると考へます。
さて、福田氏があの本の中で述べてゐないことで私が付け加へたく思ってゐることが実はひとつあって、それは、
日本人といふものが母音の発音をさへをあからさまなものとして「恥かしく」感じ、文章に於いてはこれ を語頭以外に置きたがらなかったのではないか。
といふやうな推測です。それほどの羞恥・謙譲を美徳として持った国民性を、わたしはいとほしいものに思ひます。それを激しく回顧する心持ちが、在
野ディレッタント間の、
一種の「作文作法・倫理」として求められてもいいのでは、と言ったら、これは過ぎるでせうか。
以上仮名遣ひをめぐっての卑見でした。
※(漢字については、中国、朝鮮、日本で別々のコード 対応を行ったために、東アジア儒教文化圏の、その将来へ向けた文化的連帯をさへ阻害してゐるやうにも感じるところです。)