第一詩集「夜学生」と色紙
私にとって杉山平一先生は、田中克己先生が第5次の「四季」を廃刊されたときに、新たな活動拠点
として私にしめされた「季」といふ同人誌の、謂はば精神的な支柱となってゐたひとであった。
先輩方が守ってこられた雑誌の温かい雰囲気を、まま年若い放言で壊してゐた私が、それでも気安
い気持で皆さんから迎へて頂けたのは、この二人目の雲の上の存在である先生が醸し出す気取らな
い雰囲気のおかげと云つてよかった。詩の先生ではあるが田中先生同様、杉山平一先生からも詩作
上の直接な指導をして頂いたことはない、しかし発表した作品についてはかいなででない、作者の眼
目を指摘しては頷かれるやうな温かくも鋭い感想を合評会に参加しない者にも度々与へられ、勘違ひ
をする私は僭越にも先生に理解されたといふ気持で一杯になり自惚れた返礼のお手紙など書いてゐ
たことである。しかし少ない機会であったが実際にお話を伺ふ中で一層はっきりと判ったことは、良い
と思はれないものは決して良いとは申されない反骨の志が杉山先生の中にあって、例へば現代詩詩
人がこれまで杉山先生を四季派の範疇から善意で引き雑さうとしてきたことに対して、反対に四季派
を堂々と謳ひ擁護する団体の会長を引き受けるといふやうな行動になって現れたりした。その詩に見
られる明確さと余韻といふ一見矛盾するものへの同時志向も、映像手法の影響といふより詩人の反
骨ゆゑの卓抜な平衡感覚からきてゐるもののやうに思はれるのである。
杉山先生の詩を云々するときに、特に映像文化によって培われたセンスにのみ焦点が集まるきらひ
があるけれども、その余韻、つまり映像からだけでは十分説肌できない部分について、若々しいヒュー
マニズムで高らかに埋められたものよりも、苦い人生の不条理の泌み込んだ、杉山詩にとってはむし
ろ傍系にあたるやつないくつかの作品に私は一入の感慨を覚える。この度の上下2巻の集成をもって
あらためて杉山先生の詩業の大きさは明らかになったし、先生の詩の真骨頂が戦前戦後を通じてい
ささかもその本質を変へることなく持してきた明確さへの激しい希求であることは疑ふ余地がない。け
れども、明確さへの志向がたどりつく「前進、進歩」に対してさへ苦い反省を示されるところは、戦後現
代詩の批評精神の出発点とは一線を劃した、むしろさういふ当世のの詩壇にまかり通ってきた「もっ
ともらしい正義」に対する自らも含めた「戒め」といったやうな誠実な気分が感じられ、「傍観者」のスタ
ンスで「世に背を向けたがる癖」をもって声高でなく示されてきたものは稀有な詩人の志操であったと
私には思はれるのである。
現実の先生が傍観者であったとは思へない。それは抒情詩の持つ宿命的な本質やあるひは辛酸
をなめてこられた先生の人生とも深い関係があるのかもしれない。もっともらしい正義とは戦前におい
ては軍国主義であり、戦後においては無責任な批評であり、私的に解すれば父君を象徴とする杉山
先生の合理的精神とその世俗における失敗の歴史、またそんな父子に対して容赦ない風評をしたら
う無情な世間といったものであったかも知れない。しかし人生における徒労といふことを、かやうな清
潔なウィットとまた時折登場される先生御自身に顕れるユーモアとともに気取らぬ自然体で表現され
てきた戦後の歩みについては、詩人自身が明確さへの希求において度々敬愛をもって言及してきた
詩人竹中郁、彼が戦後に歩いてきた以上に、乾燥したヒューマニズムで迫求された独自の境地のや
うに思はれるのである。
「全部は見せないこと」「決して振りかざさぬこと」「後退しながら前進すること」といった杉山先生の
詩作上での格率が、例へぱ伊東静雄においては「よもぎ摘み」といふ、ことさら淡々とした作品を選ん
での評価として示されたこと、以前の私にはそれが意図的な彼らしいほめ殺しの逸話とも受け取った。
しかし「砲身」といふ近作や、昔の拾遺詩篇「三浦のこと」など全詩集に満遍なく点在する作品の数々
を新たに読み、戦争詩を書かなかったといはれる先生が、扇動や反戦詩とはまるでスタンスの異な
る「戦争詩」を書きつづけてこられ、かつそれが私らのやうな世代に遺産として残された意味につい
ては、やがて代表作とは別にもっと考へられてよいと思ったのである。
1997・9・20 「絨毯」42号(1998.8)所載